トップ国際社会の法と秩序を尊重する日本の対応

国際社会の法と秩序を
尊重する日本の対応

 北方領土と竹島は、日本の主権が及ぶ領土でありながら管轄権の一部を事実上行使することができていません。
 また、尖閣諸島においては、領有権の問題は存在していないにもかかわらず、他国・地域が領有を主張し、一方的な行動をとっています。このような状況を改善するには、どのようにしたらいいでしょうか。
 国際社会では、国内のように警察に頼ることはできません。原則として、自分の国の利益は自ら守る必要があります。
 日本は、憲法によって、国際紛争を解決する手段として戦争や武力の行使に訴えることは認められていません。
 現代の国際社会においては、国家間の意見や利益の調整を平和的に行う様々な方法が存在します。
 日本は、領土・主権をめぐる情勢について、国際社会の法と秩序を尊重しながら、それぞれの事案の性質に応じて、適切な対応をとるようにしてきました。
 では、それぞれが置かれた状況と日本がどのように取り組んでいるか見ていきましょう。

北方領土

≪ 事案の性質 ≫

領土問題が
存在する

≪ これまでの経緯 ≫

1956年、日ソ共同宣言が署名され、両国間の国交が回復されてから既に60年以上が経過した。この間、日露間の最大の懸案である北方領土問題を解決して平和条約を締結することにより、我が国の重要な隣国との間に真の相互理解に基づく安定的な関係を確立するという基本方針を一貫して堅持し粘り強くソ連及びロシアに働きかけてきている。

≪ 日本の対応 ≫

領土問題解決に向けた首脳間始め様々なレベルでの粘り強い外交交渉。

▼ 北方領土 詳細を見る

竹島

≪ 事案の性質 ≫

領土問題が
存在する

≪ これまでの経緯 ≫

竹島は日本固有の領土であるが、韓国による不法占拠が継続している。日韓間では、1950年・60年代に、口上書を往復し、相互に主張を伝達し合った。
日本は、二国間では解決が期待できないため、国際司法裁判所への付託を1954年、1962年、2012年に提案してきた。これに対し、韓国は、提案を拒否している。

≪ 日本の対応 ≫

国際法にのっとった解決を追求。
韓国の不法占拠に対する抗議を継続。

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尖閣諸島

≪ 事案の性質 ≫

解決すべき領土問題は
そもそも存在しない

≪ これまでの経緯 ≫

中華人民共和国(中国)は、1971年12月になって初めて、14世紀に遡って歴史的に尖閣諸島を領有してきたと主張。
中国の領有権の主張は、独自の歴史解釈に基づくものであり、国際法上の根拠はない。中国は、尖閣諸島周辺海域における領海侵入を繰り返し、その頻度は2012年以降急増している。

≪ 日本の対応 ≫

中国に対し、国際社会の法と秩序を尊重した対応を求めるとともに、国際社会に説明し理解を得る

▼ 尖閣諸島 詳細を見る

北方領土

北方領土問題に関する日本政府の立場と基本方針

 今日の世界はダイナミックな変革期にあり、日露両国はアジア太平洋地域の安定と繁栄に大きな責任を共有しています。第二次世界大戦後七十年以上を経て日露間で平和条約が締結されていない状態は異常であり、北方領土問題を解決して平和条約を締結する必要があります。
 択捉島、国後島、 色丹島及び歯舞群島からなる北方領土は、日本国民が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も外国の領土となったことがない日本固有の領土です。
 現在も北方四島ではロシアによる法的根拠のない占拠が続いています。この領土問題が存在するため、戦後七十年以上経った今なお、日本とロシアの間では平和条約が締結されないままとなっているのです。
 日本政府としては、北方四島の帰属に関する問題を解決することにより、平和条約を締結すべく、ロシア政府との間で粘り強く交渉を行っていく考えです。
▶ 北方領土紹介冊子(PDF) ▶ 北方領土の地理等

Part1:戦前から戦後の動向

領土確定の経緯 詳細を
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 江戸時代、松前藩は17世紀初頭から北方四島を自藩の領域として認識し、徐々に統治を確立していきました。そして、1855年に択捉島とウルップ島との間に日露の国境が法的に画定され、それ以降、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島から成る北方四島は一度も他国の領土になったことはありません。ここでは、日露間の領土確定の経緯を確認します。

  • 1644年~江戸時代に北方四島の存在を知り、徐々に統治を確立
  • 1855年「日魯通好条約」が結ばれ、択捉島とウルップ島との間に、平和裡に国境が確定
  • 1875年「樺太千島交換条約」が結ばれ、シュムシュ島からウルップ島までの千島列島が日本領に
  • 1905年「ポーツマス条約」が結ばれ、樺太の北緯50度以南が日本に割譲される
領土問題の発生 詳細を
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 1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾して降伏の意思を明確にした後も攻撃を続け北方四島を占領しました。終戦時の北方四島には3,124世帯、17,291人の日本人が暮らしていましたが、島民の約半数は故郷からの脱出を余儀なくされ、1948年までには全員が強制退去させられました。

  • 1941年8月大西洋憲章
  • 1943年11月カイロ宣言
  • 1945年2月米英とソ連首脳がヤルタ協定に署名
  • 1945年~ソ連が対日参戦し、日本が降伏の意思を明確にした後も侵攻し、北方四島を占領
  • 1951年9月日本はサンフランシスコ平和条約に署名
    千島列島(北方四島は含まれず)と樺太南部を放棄
  • 1941年4月日ソ中立条約
  • 1945年ポツダム宣言

Part2:首脳レベルでの合意

 北方領土問題が発生して以降、日本政府とソ連・ロシア政府との間で交渉が行われ、今日に至るまで継続しています。ここでは、1956年10月の日ソ共同宣言以降の交渉の経過を振り返ります。

1956年~1998年 詳細を
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  • 1956年10月日ソ共同宣言
  • 1991年4月ゴルバチョフ大統領訪日
  • 1993年10月エリツィン大統領訪日
  • 1998年4月川奈首脳会談
  • 1998年11月モスクワ首脳会談
2001年~2019年 詳細を
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  • 2001年3月イルクーツク首脳会談
  • 2003年1月小泉総理訪露
  • 2013年4月安倍総理訪露
  • 2016年12月プーチン大統領の訪日
  • 2018年11月シンガポールでの首脳会談
  • 2019年6月プーチン大統領の訪日

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竹島

日本の基本的な立場

 竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに日本固有の領土です。
 韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。
 日本は竹島の領有権をめぐる問題について、国際法にのっとり、冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。
▶ 竹島紹介冊子(PDF) ▶ 竹島の地理等

Part1:戦前までの竹島の領有経緯 江戸期の利用と島根県への編入

鬱陵島・竹島への渡海許可とその後の鬱陵島渡海禁止 詳細を
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 日本が初めて国家として竹島の利用を認めたのは、江戸時代、17世紀初め。江戸幕府は鎖国政策をとりますが、竹島への渡海は認められていました。
 日本は、遅くとも17世紀半ばには、竹島に対する領有権を確立しました。

  • 1618年江戸幕府が米子(鳥取県)の町人に鬱陵島までの渡海を許可。
    その後、竹島への渡海も許可
  • 1693-96年元禄竹島一件
    鬱陵島への渡海禁止/竹島への渡海は禁止されず
明治期における竹島の島根県編入 詳細を
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 1900年頃から、民間の竹島利用が活発になり、1905年、日本政府は、閣議決定により竹島を島根県に編入し、領有意思を再確認しました。

  • 1905年1月28日閣議決定により、竹島を島根県に編入
竹島に対する継続的な行政権の行使 詳細を
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所轄
  • 1905年5月官有地台帳に登録
  • 1909年3月29日管轄区域を勅令で指定
登記
  • 1905年6月6日商業登記
課税等
  • 1906年3月1日アシカ漁に課税
  • 1906年〜官有地使用料徴収
産業取締・許認可
  • 1905年4月14日アシカ漁を知事の許可漁業に指定
  • 1905年6月5日アシカ漁許可鑑札を交付
  • 1921年4月1日竹島のノリやワカメの採取を許可
  • 1936年6月6日燐鉱(りんこう)試掘権を許可
韓国の主張を見てみよう 詳細を
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  • 韓国政府の主張(1)朝鮮古文献
  • 韓国政府の主張(2)安龍福の渡日
  • 韓国政府の主張(3)1900年勅令第41号

Part2:サンフランシスコ平和条約における竹島の扱いと韓国の行動

(1)終戦と平和条約締結に向けた交渉
終戦 詳細を
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 連合国との間で平和条約が結ばれるまで、日本は占領下に置かれる。

  • 1945年8月ポツダム宣言受諾
日本での動き
  • 1946年1月行政権の一時停止(1952年4月失効)
  • 1946年6月竹島への接近禁止(1952年4月解除)
平和条約締結に向けた交渉 詳細を
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 1947年頃から米国は平和条約の試案の作成をはじめ、予備的な協議を行いながら草案をまとめていき、独自に草案を作成していた英国と協議を実施。

連合国の動き
  • 1951年米国草案
  • 1951年4月25日〜米英協議
米英共同草案 詳細を
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 竹島が日本領であるとの認識を踏まえた草案が作成される。

連合国の動き
  • 1951年5月3日米英共同草案
韓国が修正を要請 詳細を
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 米国は、竹島が韓国に領有されたことはなく、日本領と回答。

韓国の動き
  • 1951年7月19日改定米英共同草案に対し、韓国が米国に修正を要請
米国の動き
  • 1951年8月10日米国が韓国の要請を拒否(いわゆるラスク書簡)
(2)平和条約の署名・発効と韓国がとった行動
平和条約署名、李承晩ライン 詳細を
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 韓国の条文修正要請は通らず、竹島=日本領を確認。
 要請が聞き入れられなかった韓国は、強硬手段を発動、日米等は抗議。

  • 1951年9月8日サンフランシスコ平和条約署名

韓国の動き
  • 1952年1月18日韓国大統領が「海洋主権宣言」
米国の動き
  • 1952年2月11日海洋主権宣言に対する米国の抗議
条約発効、韓国による不法占拠 詳細を
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 日本人の竹島渡航が再開するも韓国側の妨害、海保巡視船に対する銃撃事件が発生。
 韓国は海洋警察隊を派遣し竹島を不法占拠。
 米英とも、サンフランシスコ平和条約によって竹島が日本領であるとの見解。

  • 1952年4月28日サンフランシスコ平和条約発効
日本の動き
  • 1953年6月~竹島への渡航が再開
  • 1953年7月~海保巡視船へくら銃撃事件
米国・英国の見方
  • 米国の見方:ヴァン・フリート特命大使報告書
  • 英国の見方:在日英国大使館発本国宛電報
日本は国際司法裁判所への付託を提案、韓国は拒否 詳細を
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日本の動き
  • 1954年9月~韓国に対し、国際司法裁判所への付託を提案
韓国の動き
  • 韓国の竹島における行動

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尖閣諸島

日本の基本的な立場

尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり、現に我が国はこれを有効に支配しています。
したがって、尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しません。
日本は領土を保全するために毅然としてかつ冷静に対応していきます。
日本は国際法の遵守を通じた地域の平和と安定の確立を求めています。
▶ 尖閣諸島紹介冊子(PDF) ▶ 尖閣諸島の地理等

Part1:戦前までの尖閣諸島の領有経緯 ~ 領土編入の背景と編入後の利用

尖閣諸島 ~どの国の支配も及んでいなかった無人島 詳細を
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 19世紀後半まで、尖閣諸島は、どの国にも属さない琉球周辺の無人島でした。
 1868年の明治維新後、日本は、国内では統治機構の近代化を進めるとともに、国際的には欧米列強がアジアに進出する中で、不平等条約の改正をはじめ、近代国際社会の中での地位向上に力を入れました。
 東シナ海周辺情勢の複雑化とともに、明治政府にとって、尖閣諸島を含む日本周辺離島の位置づけを明確にすることは重要な課題となっていました。1880年代に入ると、清仏戦争(1883-85年)や、巨文島(きょぶんとう)事件の勃発(1885年4月)など、欧米列強の進出とともに東アジアの緊張が高まり、その重要性が一段と高まりました。

尖閣諸島の調査と行政管理の必要性の高まり 詳細を
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  • 1885年
    9月22日-12月5日
    沖縄県が尖閣諸島を調査、国標建設を上申
  • 1890年1月13日水産事業者取締を理由に所轄編入を上申
  • 1893年11月2日沖縄県が国標建設を改めて上申
尖閣諸島の領土編入 詳細を
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  • 1895年1月14日漁業者取締の必要性から、国標建設、沖縄県所轄を閣議決定
尖閣諸島の有効な支配 詳細を
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所轄
  • 1895年沖縄県所轄になる
  • 1897年5月31日法の適用地域
  • 1902年12月3日登野城村に編入
  • 1908年八重山村の所属となる
  • 1920年大正島の編入、字名を設定
国有地管理・処分
  • 1896年~官有地貸下げ使用料の徴収
  • 1932年~尖閣諸島4島の払下げ
登記
  • 1932年~土地台帳への登記
許認可
  • 1922年6月6日燐試掘権
その他
  • 1899-1904年
    沖縄県が臨時土地整理事業を実施
    尖閣諸島を含む八重山各島を測量し公図を作成
  • 1930年古賀善次が4島の払下げを出願
    沖縄営林署が土地査定のため現地調査を実施
中国の主張を見てみよう 詳細を
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  • 中国政府の主張(1)固有の領土
  • 中国政府の主張(2)日本は釣魚島を窃取した

Part2:米国の施政下に置かれた尖閣諸島と沖縄返還

米国の施政下の尖閣諸島 詳細を
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 戦後、沖縄は米国の軍政下に置かれ、サンフランシスコ平和条約によって尖閣諸島を含む沖縄の領有権は日本に残り、施政権は米国が行使することとなりました。米国は、戦時中から尖閣諸島を沖縄の一部と認識し、米国施政下においては、尖閣諸島は八重山諸島の管轄下に置かれ、尖閣諸島4島の所有者、漁業者による渡航、学術的な調査の実施についても、基本的には戦前と同じ状況が引き継がれました。

1945~1952年の動き
  • 1945年9月~米国軍政府が沖縄の統治を開始
  • 1950年9月、1952年4月米国民政府、琉球政府が発足
  • 1952年4月~サンフランシスコ平和条約が発効し、正式に沖縄が米国の施政下に置かれる
  • 1952年~琉球列島米国民政府(USCAR)の布令等の琉球の範囲に尖閣諸島が含まれる
米国(米軍)が尖閣諸島に対し施政権を及ぼしていたことがわかる事例
  • 1948年米国軍政府が久場島を爆撃演習場に指定
  • 1950年代米軍は久場島の地権者と軍用地賃借契約を締結
尖閣諸島の漁業と学術調査
  • 尖閣諸島に出漁するカツオ漁船に便乗して始まった、戦後の学術調査
沖縄返還 詳細を
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 1960年代の終わり頃になると、尖閣諸島への台湾人の不法入域が問題となり、USCARと協議の上で琉球政府は取締を行います。日本本土からも調査に入ったこの頃、尖閣諸島をめぐる情勢に変化が生じていました。その変化は、沖縄返還協定(1971年6月17日署名)に向けて顕著になっていきます。それまで、尖閣諸島の領有を主張したことのなかった中国、台湾が、突如として領有権を主張しはじめました。

  • 1969年5月石油埋蔵の可能性を示す報告が公表される
  • 1971年6月17日沖縄返還協定署名 返還地域に尖閣諸島が含まれる
  • 1972年5月15日沖縄返還協定が発効 日米地位協定に基づき、
    久場島、大正島を射爆撃場として提供

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