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尖閣諸島
~どの国の支配も及んでいなかった無人島

19世紀後半まで

領土編入前の東シナ海周辺と尖閣諸島

 19世紀後半まで、尖閣諸島は、どの国にも属さない琉球周辺の無人島でした。
 1868年の明治維新後、日本は、国内では統治機構の近代化を進めるとともに、国際的には欧米列強がアジアに進出する中で、不平等条約の改正をはじめ、近代国際社会の中での地位向上に力を入れました。
 東シナ海周辺情勢の複雑化とともに、明治政府にとって、尖閣諸島を含む日本周辺離島の位置づけを明確にすることは重要な課題となっていました。1880年代に入ると、清仏戦争(1883-85年)や、巨文島(きょぶんとう)事件の勃発(1885年4月)など、欧米列強の進出とともに東アジアの緊張が高まり、その重要性が一段と高まりました。

領土編入前の東シナ海周辺と尖閣諸島

尖閣諸島の状況 資料1 参照

尖閣諸島は、東シナ海を行き来する船に航路標識として利用され、琉球国の資料や絵図(例:資料1)に描かれるなど、古くから知られる存在でした。1819年頃には琉球王族の上陸記録が、1859年には琉球国の人物が接近して観察したという記録があります。しかし、無人島だった尖閣諸島は、1895年に日本が領土編入するまで、どこの国にも統治されたことはありませんでした。

琉球の状況

江戸時代、琉球国は、薩摩藩の支配下にあり、江戸幕府は琉球国を薩摩藩の一部とみていました。一方、琉球国はまた、清国と朝貢(ちょうこう)関係を結び福州を窓口として交易を行なっていました。
明治維新後、1872年に琉球国は琉球藩に改められて日本への帰属が明確化され、1879年には沖縄県が設置されました。

資料1
航路が描かれた琉球の巻物

琉球国那覇港と中国福州港の間の航路が描かれた巻物(作成年代不詳)。福州港を出帆した船は、魚釣島-久場島-久米赤島(大正島)-久米島を通過して那覇港に帰港していたことが読み取れる。

尖閣諸島は、明・清朝の使節の記録(冊封使録(さくほうしろく))など中国の記録にも登場するが、この図は、島の名称を記す際、上に冊封使録の呼称(例:黄尾島)、下に琉球における呼称(例:久場島)を併記している点が特徴的。

航路が描かれた琉球の巻物(拡大)
航路が描かれた琉球の巻物

所蔵:沖縄県立博物館・美術館(渡閩(とびん)航海図)

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