領土確定の経緯
1644年~
江戸時代に北方四島の存在を知り、徐々に統治を確立
日本は江戸時代には北方四島の存在を知り、当時日本を統治していた江戸幕府は1644年には、「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島などの地名が明記された日本地図「正保御国絵図(しょうほおくにえず)」を編纂し、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。我が国の松前藩は17世紀初頭から北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
択捉島標柱写真
所蔵:千島歯舞諸島居住者連盟
このように、ロシアが18世紀初頭以降に千島列島を探検する前から、日本は北方四島と密接な関わりがありました。幕府が択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を統治していたことから、ウルップ島より南にロシアの勢力が及んだことはありません。1798年には江戸幕府が「大日本恵登呂府(えとろふ)」と記された標柱を建て、日本の領土であることも示しています。
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