領土確定の経緯

正保御国絵図

正保御国絵図
所蔵:国立歴史民俗博物館


正保御国絵図(部分拡大)

正保御国絵図(部分拡大)
所蔵:国立歴史民俗博物館

1644年~

江戸時代に北方四島の存在を知り、徐々に統治を確立

 日本は江戸時代には北方四島の存在を知り、当時日本を統治していた江戸幕府は1644年には、「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島などの地名が明記された日本地図「正保御国絵図(しょうほおくにえず)」を編纂し、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。我が国の松前藩は17世紀初頭から北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。

択捉島標柱写真

択捉島標柱写真
所蔵:千島歯舞諸島居住者連盟

 このように、ロシアが18世紀初頭以降に千島列島を探検する前から、日本は北方四島と密接な関わりがありました。幕府が択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を統治していたことから、ウルップ島より南にロシアの勢力が及んだことはありません。1798年には江戸幕府が「大日本恵登呂府(えとろふ)」と記された標柱を建て、日本の領土であることも示しています。

日魯通好条約に基づく国境線

日魯通好条約に基づく国境線

1855年

「日魯通好条約」が結ばれ、択捉島とウルップ島との間に、平和裡に国境が確定

 日魯通好条約において、日本とロシアは、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島との間の国境をそのまま確認しました。
 日本とロシアは、このように平和的・友好的な形で合意を達成したのです。

樺太千島交換条約に基づく国境線

樺太千島交換条約に基づく国境線

1875年

「樺太千島交換条約」が結ばれ、シュムシュ島からウルップ島までの千島列島が日本領に

 樺太千島交換条約により、 樺太(サハリン)全島における日本の権利と引き替えに、日本は千島列島にかかる権利をロシアから譲り受けました。この条約には千島列島として、最北のシュムシュ島から、もっとも南に位置するウルップ島までの18島が列挙されました。そこに北方四島(択捉島、 国後島、 色丹島、 歯舞群島)の島名はありません。
 こうした事実は、千島列島とは明確に区別された北方四島が、一度も日本以外の領土になったことがない日本固有の領土であることを示しています。

ポーツマス条約に基づく国境線

ポーツマス条約に基づく国境線

1905年

「ポーツマス条約」が結ばれ、樺太の北緯50度以南が日本に割譲される

 日露戦争後に締結されたポーツマス条約では、樺太(サハリン)の北緯50度以南を、日本がロシアから割譲されました。

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