米国の施政下の尖閣諸島

1945年9月~

米国軍政府が沖縄の統治を開始

 1945年9月7日、琉球列島における降伏文書調印により、琉球列島米国軍政府による占領統治(北緯30度以南の南西諸島)が開始します。奄美諸島、沖縄本島、先島諸島に軍政が敷かれ、その下に住民による沖縄民政府を中心とした行政機構が設置されました。尖閣諸島が石垣町(市)に含まれることは、戦前から変わりませんでした。

1950年9月, 1952 年4月

米国民政府、琉球政府が発足

 1950年8月、米国軍政府は、奄美、沖縄、宮古、八重山の各群島政府を設置して境界を定めました。同年12月、米国軍政府は、琉球列島米国民政府(USCAR)に再編され、1952年、USCARは各群島政府を廃して琉球政府を設置、下図のような機構に再編しました。

USCAR : United States Civil Administration of the Ryukyu Islands

1952年4月~

サンフランシスコ平和条約が発効し、
正式に沖縄が米国の施政下に置かれる

 サンフランシスコ平和条約の発効により、琉球列島は、「北緯29度以南の南西諸島」として正式に米国の施政下に置かれました。

第二章(領域)

第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

図:米国施政下の統治体制

図:米国施政下の統治体制

1952年~

琉球列島米国民政府(USCAR)の布令等の
琉球の範囲に尖閣諸島が含まれる 資料4-5 参照

 USCAR発足後(上記参照)の布令第68号(琉球政府章典)など、米国(軍)は関連する布告等で施政下に置く琉球列島の範囲を緯度経度で明示してきました。その範囲の中には、いずれも尖閣諸島が含まれています。尖閣諸島は一貫して南西諸島の一部に位置付けられています。

図:USCARの布令等で示された琉球の範囲
資料4
米国民政府布令第68号
(琉球政府章典)

第1条で琉球の範囲を緯度経度で指定

USCAR Office of The Deputy Governor
1952年(昭和27年)2月29日
所蔵:沖縄県公文書館

米国民政府布令第68号
資料5
米国民政府布告第27号
(琉球列島の地理的境界)

第1条で琉球の範囲を緯度経度で指定

USCAR Office of The Deputy Governor
1953年(昭和28年)12月25日
所蔵:沖縄県公文書館

米国民政府布告第27号

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米国(米軍)が尖閣諸島に対し施政権を及ぼしていたことがわかる事例

1948年

米国軍政府が久場島を爆撃演習場に指定 資料1 参照

 米軍は、久場島を中心とする半径5海里の圏内を第一航空師団使用の永久危険区域(射爆撃演習場)に指定し、全関係者に告知するよう、米国軍政府を通じて沖縄民政府に通達しました。

米国は戦時中から尖閣諸島を琉球列島の範囲に含めていた 資料2-3 参照

 米国軍政府の活動報告第1号(1946年7月発行:資料2参照)は、尖閣諸島を「SENKAKU-GUNTO」として琉球列島の範囲に描いています。その後も、尖閣諸島は琉球列島の範囲の中にあることが関連布告等で示されていきますが、戦時中に米海軍情報局が作成した日本の状況を分析した情報集や、地名集などから、戦時中から米軍は尖閣諸島を琉球列島の範囲に含めていたことが確認できます。この認識は、沖縄返還に至るまで引き継がれていきます。

資料1
琉球米軍による永久危険区域の指定
資料抜粋

ライカム
 四月九日 〇八三〇
運輸隊指揮官
軍政府副長官
宛、沖縄知事
一、左の海域をは第一航空師団使用の永久危険区域とする
 イ、第一区域
  北緯二十五度五六分
  東経一二三度四一分
  コビ礁を中心とする半径5哩の圏内
(略)
三、上記情報を貴下管轄下の全関係者に告知して貰ひたい

琉球米軍による永久危険区域の指定

琉球政府総務局渉外広報部文書課
1948年(昭和23年)4月9日
所蔵:沖縄県公文書館

資料2
琉球列島における
米軍政府による活動報告第1号

琉球列島の範囲内に尖閣諸島
(SENKAKU-GUNTO)

琉球列島における米軍政府による活動報告第1号
琉球列島における米軍政府による活動報告第1号(部分拡大)

SUMMATION of UNITED STATES ARMY MILITARY GOVERNMENT ACTIVITIES in the RYUKYU ISLANDS No1 July-November 1946
1946年(昭和21年)7-11月
所蔵:外務省外交史料館

資料3
琉球列島・南方諸島地名集

琉球列島の範囲内に尖閣諸島

GAZETTEER No.14X RYUKYU RETTO AND NANPO SHOTO
米国海軍水路部 1944年(昭和19年)11月
所蔵:英国国立公文書館 
提供:(公財)日本国際問題研究所

琉球列島・南方諸島地名集 琉球列島・南方諸島地名集(部分拡大)

1950年代

米軍は久場島の地権者と軍用地賃借契約を締結 資料6 参照

 射爆撃演習場に指定された久場島は、戦前から引き続き、古賀善次(こがぜんじ)が所有者となっていました。そのため、米軍は同島を軍用地として借り上げる必要がありました。1958年、米国は琉球政府との間に、米軍が使用する軍用地の総括賃借契約を締結します。この時、多くの軍用地と同様に、久場島についても賃借契約が締結されました。

資料6
財産取得要求告知書 石垣市
資料抜粋

米国が石垣市に所在する久場島を無期貸借して軍用地として取得するよう琉球政府に要求するための告知書。賃借による取得の開始時期は、1958年7月に遡って行うよう記載されており、実際、琉球政府と久場島の所有者である古賀善次氏との間で契約が締結された。取得の対象となる土地が示された文書や地図が添付されている。

琉球政府法務局軍用地関係事務所業務課
1960年(昭和35年)1月
所蔵:沖縄県公文書館

財産取得要求告知書 石垣市 財産取得要求告知書 石垣市

尖閣諸島の漁業と学術調査

尖閣諸島に出漁する
カツオ漁船に便乗して始まった
戦後の学術調査

 1950年、故高良鉄夫氏(石垣島出身、元琉球大学学長、農学博士)は、尖閣諸島に出漁するカツオ漁船に便乗して魚釣島に渡島し、同島で戦後初の学術調査を実施しました。
 その後も高良氏は、1952、53、63、68年に調査団を編成して尖閣諸島の学術調査を実施し、調査には、琉球大学を中心に多くの地元研究者が参加しました。以降も、1971年に琉球大学による、また、1979年には沖縄開発庁による学術調査が実施され、アホウドリや動植物の固有種が発見されるなど、尖閣諸島に関する貴重な学術的知見が蓄積されました。

魚釣島カツオ工場跡前の石垣にてテッポウユリを採取する高良鉄夫 氏

魚釣島カツオ工場跡前の石垣にてテッポウユリを採取する高良鉄夫 氏
撮影:多和田真淳(たわだしんじゅん) 氏(1952年学術調査時)

魚釣島カツオ工場跡前の石垣にてテッポウユリを採取する高良鉄夫 氏

魚釣島海岸にて漁船基本丸(きほんまる)の乗組員と新垣秀雄(あらかき ひでお) 氏
撮影:多和田真淳 氏(1952年学術調査時)

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