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尖閣諸島の調査と行政管理の必要性の高まり

1885年(明治18年)9月22日-12月5日

沖縄県が尖閣諸島を調査、国標建設を上申

 列強の進出を背景に、日本政府は周辺離島の監視を強化する方針を打ち出し、尖閣諸島については、沖縄県が調査を行い、国標建設の指揮を受けたいと政府に上申します。その後、沖縄県が上陸調査を行い清国の支配の形跡がないことを確認し再度、政府に国標建設について上申します。
 これに対し、政府としては、国際情勢や他国との関係を勘案し、国標建設を見合わせました。

1890年(明治23年)1月13日

水産事業者取締を理由に所轄編入を上申 資料2-4 参照

 沖縄県知事が、政府に「水産事業者の取締の必要があるため」、改めて尖閣諸島を八重山島役所所轄とするよう上申しました。これには、水産事業者の進出が背景にあり(下)、以降、管理を試行します。

資料2
所轄編入の上申
資料抜粋

昨今ニ至リ水産取締之必要ヨリ所轄ヲ被相定度旨八重山島役所ヨリ伺出候次第モ有之旁此際管下八重山島役所所轄ニ相定度此段相伺候也

「甲第1号」『帝国版図関係雑件』
1890年(明治23年)1月13日
所蔵:外務省外交史料館

所轄編入の上申

水産事業者の尖閣諸島への進出と管理の試行

 海防の必要上調査が行われた尖閣諸島ですが、1889年頃から漁業者の進出が活発になっていました。
そのため、暫定的な管理を模索していきました。

  • 1889年石垣島に水産業奨励組織 「八重山島共同水産会社」設立
  • 1889年末久場島、魚釣島に同社が出漁を開始(その後も水産事業者による出漁が続く)
  • 1891年末尖閣諸島を八重山警察署の管轄に仮編入
  • 1892年沖縄県が、海軍省に沖縄県周辺無人島の調査を願い出る
資料3
八重山島ニ係ル書類

総計78名が久場島並びに魚釣島に渡航したとあり、尖閣諸島にはこの頃すでに多くの漁夫が出漁していた。

資料抜粋

久場島并ニ魚釣嶋ヘ渡航シタル糸満人ハ総計七拾八名
内訳:大有丸ヨリ三十二名、鰹船ヨリ二十六名、与那国ヨリ廿名。内申書ニ添ヘテ該島ニ於テ収獲シタル夜光貝但シ殻壱個、寛永銭四枚ヲ差出シタリ。塙印

八重山島ニ係ル書類

1890年(明治23年)
所蔵:沖縄県立図書館

資料4
沖縄県警察統計表 明治24年

沖縄県警察部編纂(へんさん)の年次報告。1891年12月に阿根久場島(尖閣諸島の呼称)を暫定的に八重山島警察署の所轄として取り扱うよう、沖縄県知事から同署に命令が出されたことが記されている。

資料抜粋

(一八九一年(明治24年))同月同日(十二月十一日) 県訓令第四十七号ヲ以テ阿根久場島ノ警察所轄仮リニ八重山島警察署ニ付ス

※資料本文中、“仮リニ”とされているのは、まだ尖閣諸島が領土編入される前であるため、正式な行政行為と位置付けていなかったことを示している。

沖縄県警察統計表 明治24年

1891年(明治24年)
所蔵:国立公文書館

1893年(明治26年)11月2日

沖縄県が国標建設を改めて上申 資料5 参照

 尖閣諸島への水産事業者の出漁が更に活発になり、その取締が必要だとして、沖縄県は、政府に所轄編入と国標建設を再度願い出ました。

資料5
所轄編入、国標建設の上申
資料抜粋

近来該島ヘ向ケ漁業等ヲ試ミル者有之取締上ニモ関係不尠義ニ付去ル十八年縷々上申仕候通本県ノ所轄トシ其目標建設仕度候条至急仰御指揮度曩キノ上申書及御指令ノ写相添ヘ此段重テ上申候也(略)

「甲第111号」『帝国版図関係雑件』

「甲第111号」『帝国版図関係雑件』
1893年(明治26年)11月2日
所蔵:外務省外交史料館

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