尖閣諸島の領土編入

1895年(明治28年)1月14日

漁業者取締の必要性から、
国標建設、沖縄県所轄を閣議決定 資料6-7 参照

 沖縄県からの願い出を受け、漁業者取締の必要性から、尖閣諸島(魚釣島、久場島)に国標建設を認め、沖縄県所轄とすることが閣議決定されました。
 これにより、日本政府は、尖閣諸島を正式に領土に編入しました。

資料6
内務大臣が閣議を求めた文書

沖縄知事から内務大臣に宛てた1893年11月2日付の上申書への回答に際して、内務大臣が作成した閣議請議の文書(1895年1月12日付)。これまで無人島だった久場島、魚釣島について、近年漁業を試みる者があり取締を要するため、沖縄県の所轄とし標杭を建設したいとの上申があり、前記の島は同県の所轄と認められるので、上申のとおり標杭を建設させたいとして閣議を求めた。

資料抜粋

沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ハ従来無人島ナレドモ近来ニ至リ該島ヘ向ケ漁業等ヲ試ムル者有之之レカ取締ヲ要スル

内務大臣(野村靖)
「秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件」
『公文類聚・第19編・明治28年』
1895年(明治28年)1月12日 
所蔵:国立公文書館

秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件
資料7
国標建設と沖縄県所轄を認める閣議決定

久場島、魚釣島の沖縄県への所轄編入の閣議決定文面と(1895年1月14日付)、同県への指令案の文面が記載されている。

資料抜粋

同島ノ儀ハ沖縄県ノ所轄ト認ムルヲ以テ標杭建設ノ儀同県知事上申ノ通許可スヘシトノ件ハ別ニ差支モ無之ニ付請議ノ通ニテ然ルヘシ

閣議決定 指令案 標杭建設ニ関スル件請議ノ通
『公文類聚・第19編・明治28年』
1895年(明治28年)1月14日 所蔵:国立公文書館

閣議決定 指令案

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古賀辰四郎による尖閣諸島の開拓

尖閣諸島の領土編入(1895年1月)の翌年、沖縄県は福岡県出身の商人である古賀辰四郎に開拓を許可し、南小島・北小島・魚釣島・久場島の4島は同氏に30年間無償で貸与されることになりました。

 1897年3月、古賀辰四郎は35名の出稼労働者を尖閣諸島へ派遣し、アホウドリの羽毛採取事業と島の開拓を開始します。尖閣諸島の開拓は久場島を中心にはじまり、アホウドリの羽毛採取事業も順調に拡大していきましたが、一方で、アホウドリは激減していきました。そのため、1900年には専門家を招いて各島で調査を行うなど対策を講じます。

 1900年の時点では、すでに久場島に家屋が数件建設され、南小島の北西端の砂浜付近にも、小屋や石垣が建てられていました。南小島の様子は、右の写真1におさめられていますが、この写真の手前には、3艘の日本本土式の和船や、左奥には沖縄式の小舟である「サバニ」が写っており、漁業の根拠地として利用されていたことが分かります。

 結局、アホウドリの羽毛事業は縮小し、古賀辰四郎は、セグロアジサシなど小型の海鳥のはく製づくりや、カツオの漁獲、カツオ節の製造などを始めました。魚釣島にはカツオ節工場が作られ(写真2)、燐(リン)鉱資源の調査に訪れた常藤規隆氏ら一行と撮影したと思われる写真も残されています(写真3)。

 1908年のこの頃、カツオ節製造事業が軌道にのり、尖閣諸島の開拓が進んでいきました。尖閣諸島各島に居住する人々は、99戸、総数248名を数えたといいます。

写真1:南小島の様子(1900年)

写真1:南小島の様子(1900年) 所蔵:国立公文書館


写真2:魚釣島カツオ節工場全景(1908年)

写真2:魚釣島カツオ節工場全景(1908年) 所蔵:国立公文書館


写真3:尖閣諸島魚釣島(1908年頃)

写真3:尖閣諸島魚釣島(1908年頃) 写真:石澤司氏提供


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