本サイトに掲載する資料等は、政府の委託事業の下で有識者の助言を得て、調査・収集及び作成したものであり、本サイトの内容は政府の見解を表すものではありません。このサイトについて

時代別テーマ解説

時代区分 IV 戦後、沖縄返還に向けた動きが顕在化するまで

資料集 vol.2
米国施政下の尖閣諸島

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この資料集について

作成目的

 平成26年度から、内閣官房領土・主権対策企画調整室の委託により、尖閣諸島に関する資料調査が行われてきた。委託業務により収集されてきた資料は、同室が設置している「尖閣諸島研究・解説サイト」内の、「尖閣諸島資料ポータルサイト」に掲載され、また、資料調査報告書が公表されている。
 「尖閣諸島資料ポータルサイト」は、尖閣諸島に関する資料を個別に紹介するもので、資料画像(PDFファイル)と資料概要、内容見本(関連部分の抜粋)や属性情報が表示されている。
 一方、資料調査報告書は、平成31年度版として総括報告書が作成され、収集した資料のうち代表的なものを時代区分を設定して紹介している。報告書には、テーマに応じた解説と資料の紹介があるが、資料そのものについて紹介するものではない(そのため、資料画像が完全に見られない場合がある)。
 そこで、調査研究や尖閣諸島についての理解促進に資することを目的に、また、資料調査の成果活用の観点からも、テーマごとに関連する資料を収録し、解説がともなった形で資料画像全体または尖閣諸島に直接関係する部分を見ることができるよう作成したものがこの資料集である。
 資料集の作成にあたっては、平成31年度までの成果に依拠するとともに、資料調査及び編纂研究委員会メンバーの助言を受けた。委員各位に厚く御礼申し上げる。
 また、この資料集に収録している資料は、それぞれ所蔵機関または所有者の許諾を得て掲載している。開示にあたってご協力いただいた関係機関、各氏に深謝する。

資料収録方針

 当該資料が長大ではない場合には全部を収録し、ページ数が多数に及ぶ場合には特に尖閣諸島に関係する部分のみを収録した。資料画像は文字が読める大きさで掲載し、尖閣諸島に関係する部分(場合によってはその前後)のテキストを「内容見本」としてタイプした。
 テキストのタイプにあたっては、旧字は基本的に新字に置き換え(沖繩縣→沖縄県など)、判読が困難な文字は■とし、明らかな誤字や誤記をそのままタイプしている部分には「(ママ)」を入れた。省略部分には「(略)」を入れている。

1 - 尖閣諸島をめぐる出来事と資料集の位置付け

(1)尖閣諸島をめぐる出来事

 尖閣諸島は東シナ海にあり、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などから構成され、1895年(明治28年)の閣議決定によって日本の領土に編入された。
 1895年以前はどこの国にも属さない島であったが、周辺島嶼確認の一環として、1885年 (明治18年)に沖縄県が現地調査を行うとともに国標建設を内務省に上申した。その後、漁業者が盛んに進出するようになり取締の必要が高まったことから、1893年(明治26年)沖縄県が県所轄と標杭建設を改めて上申し、1895年の閣議決定に至る。
 閣議決定によって沖縄県の所轄となった尖閣諸島は、行政区画への編入、許認可、国有地としての管理、登記など行政権等が行使され、有効な支配が継続した。また、民間人による開拓が行われ、1896年(明治29年)に福岡県出身の商人である古賀辰四郎に開拓が許可され、1897年(明治30年)、同氏が久場島に人を送って以降、開拓が進められた。1918年(大正7年)に古賀辰四郎が死去した後も、その子息である古賀善次によって事業が引継がれ、同氏に国有地であった尖閣諸島4島(魚釣島、北小島、南小島、久場島)が払い下げられるが、第二次世界大戦の戦火の高まりによって無人となる。
 戦後、尖閣諸島は、米軍(米国)が施政下に置く琉球列島の範囲に含まれ、1948年までには久場島が、後に大正島が米軍の射爆撃演習場に指定され、島の周囲への立ち入り禁止措置などがとられた。久場島は、戦前から引き続き古賀善次が地権者であったため、琉球政府を介して米軍との間に軍用地の賃借契約が締結され賃借料の支払が行われる。
 このように、戦後も戦前からの地方制度や財産が引き継がれる中、米軍(米国)施政下で琉球政府による取締や管理、調査などが行われた。その後、1972年(昭和47年)5月15日、いわゆる沖縄返還によって施政権が日本に返還され、その返還対象範囲に尖閣諸島が含まれた。
 尖閣諸島は、1895年の編入から一貫して日本の領土であり、現在も日本が有効に支配している。

(2)時代区分の設定

 「尖閣諸島研究・解説サイト」では、1885年の沖縄県による調査以前を「時代区分I 」、1885年以降、領土編入前までを「時代区分II 」、領土編入から終戦までを「時代区分III 」、戦後、沖縄返還に向けた動きが顕在化する頃までを「時代区分IV」、そこから沖縄返還までを「時代区分V」として、有識者コラム、時代別テーマ解説や資料集、解説動画などを掲載している。

(3)資料集の位置付け

 『尖閣諸島関係資料集vol.2 米国施政下の尖閣諸島』は、まず、戦後、米軍が施政下においた琉球列島の範囲に、明確な形で尖閣諸島を含めていたことを示す資料を収録し、次いで、久場島を射爆撃演習場に指定し、漁業関係者に久場島の接近禁止が通告されていたことを示す資料を収録している。また、軍用地として使用するために、米国が、琉球政府を介して戦前からの久場島の地権者(古賀善次氏)と土地の賃借契約を結んでいたことを示す資料を収録している。
 この資料集の位置付けを概括すれば次の通りである。

戦後、尖閣諸島が、琉球列島の一部として米軍(米国)の施政下におかれたことがわかる。
尖閣諸島の久場島が米軍の射爆撃演習場として指定され、接近禁止措置がとられるなどして、米国により施政権が行使されていたことがわかる。
いわゆる「沖縄返還協定」によって、日本に施政権が返還された範囲に尖閣諸島が含まれていることがわかる。

尖閣諸島をめぐる出来事
資料一覧

2 資料説明

(1)米軍の施政下におかれた琉球列島(1945年~)

 1945年(昭和20年)9月7日、米軍に対して琉球列島の全日本軍が無条件降伏を受け入れる降伏文書が署名され、公式に沖縄戦が終結した。琉球列島米国軍政府による占領統治が開始され軍政が敷かれた。米軍は、戦時中から八重山諸島に属するものとして、尖閣諸島を琉球列島に含めていたことが窺われ※1、戦後直後の、米国軍政府の活動報告第1号(1946年7月発行)においても、尖閣諸島を琉球列島の範囲に含めているNo.1
 この軍政の下に、沖縄諮詢会(しじゅんかい)などの住民の自治組織が発足し、その後、沖縄諮詢会に代わって沖縄民政府が設立され、宮古、八重山群島には宮古民政府、八重山民政府が置かれ、奄美群島には臨時北部南西諸島政庁が置かれた。尖閣諸島が石垣町(市)に含まれることは、戦前から不変であったNo.2


(2)琉球列島米軍政府の布令(1950年9月~)

 1950年(昭和25年)になると、軍政下にあった琉球列島に、米国軍政府布令第22号「群島組織法」が施行されNo.3公選による各群島政府が設立された。
 この布令により、奄美、宮古、沖縄、八重山の各群島に設置されていた沖縄県民政府などが、4つの群島政府(沖縄群島政府・奄美群島政府・宮古群島政府・八重山群島政府)に再編され、各群島の範囲が緯度経度で規定された。これにより、大正島が宮古群島の範囲に(宮古群島政府の管轄下に)、それ以外の尖閣諸島各島が八重山群島の範囲に(八重山群島政府の管轄下に)含まれた。


(3)琉球政府の発足(1952年4月~)

 1950年(昭和25年)12月15日、米国軍政府が廃止され、琉球列島米国民政府(USCAR)が設立された。サンフランシスコ平和条約の発効(1952年(昭和27年)4月28日)により、琉球列島は、「北緯29度以南の南西諸島」として米国の施政下に置かれることになるが、その頃USCARは、1952年2月29日公布、同年4月1日施行の「米国民政府布令第68号」(琉球政府章典)No.4をもって、各群島政府を廃し琉球政府を設置した。この布令には、施政下に置く琉球列島の範囲が緯度経度で示され、尖閣諸島がその範囲の中に含まれている。
 その後、琉球列島の一部として米国の統治下にあった奄美諸島の施政権が日本に返還されることとなり(1953年(昭和28年)12月25日付)、USCARおよび琉球政府は、その地理的境界を再設定する必要が生じた。そこでUSCARは、「米国民政府布告第27号」(琉球列島の地理的境界)No.5を発出し、その第1条において、USCAR及び琉球政府の地理的境界を緯度経度で示し、その範囲の中に尖閣諸島が引き続き含まれた(下図参照)。
 この他にも、USCARは関連する布告等で琉球列島の範囲を示している。例として、出入管理に関する「琉球列島出入管理令」(1954年(昭和29年)2月11日公布)No.6や、「刑法及び刑事訴訟法」(1955年(昭和30年)3月16日公布)No.7においても、「琉球列島の地理的境界」No.5で規定される範囲が琉球列島の範囲として示されている。

図:USCARの布令等で示された琉球の範囲/米国施政下の統治体制

(4)沖縄返還(1972年5月)

 1969年(昭和44年)11月の日米首脳会談以降、沖縄返還交渉が進展し、1971年(昭和46年)6月17日、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(略称:米国との沖縄返還協定)が署名に至った。この協定により、沖縄の施政権が米国から日本に返還されることが決まり、1972年(昭和47年)5月15日の発効によって沖縄は本土に復帰した。
 この協定には、「合意された議事録」No.8が付属しており、この議事録において、上述の「琉球列島の地理的境界」No.5が示す範囲が返還対象とされた。
 以上のとおり、米軍(米国)は、戦時中から一貫して尖閣諸島を八重山諸島に属するものとして扱い、関連する布告等によって施政下におく琉球列島の範囲に明確な形で尖閣諸島を含め、沖縄返還においても返還対象に明確な形で尖閣諸島を含めるに至った。このことから、尖閣諸島の施政権もまた米国から日本に返還されたことがわかる。


(5)射爆撃演習場に指定された久場島

 米軍(米国)が、尖閣諸島を施政下におく琉球列島の範囲に含めていたことは既述のとおりであるが、米軍はまた、久場島、大正島を射爆撃演習場に指定し使用していた。1948年1月には久場島が射爆撃演習場として永久危険区域に指定されていたことが明らかになっておりNo.9、1948年4月には、久場島の半径5マイルが永久危険区域に指定されたことが米軍政府から沖縄民政府の知事宛に通知されNo.10、この通知を受け、沖縄民政府は、漁業関係機関に久場島の半径5マイルが出漁禁止区域となったことを通達した(→No.11)。同年7月には、期限を定めず久場島を射爆撃演習場として使用することが米軍内で確認されているNo.12
 なお、米国は、久場島を軍用地として使用するにあたり、琉球政府に軍用地として久場島の取得を要求し、その告知書が作成され登記されたNo.13。その後、琉球政府は、戦前からの久場島の地権者である古賀善次氏と賃借契約を締結している。
 このように、米軍(米国)は、引き続き戦前からの地方制度や財産を認め、尖閣諸島を施政下におき、射爆撃演習場として実際に使用していた。また、琉球政府も、琉球警察署の所轄に尖閣諸島を含め取締を行い、さんご漁の許可などを通じ行政権等を行使していた。第三清徳丸事件が魚釣島周辺で勃発した際も、琉球政府の管轄地域内で発生した事件として対応が行われた※2


米国施政下の尖閣諸島

※1 『平成31年度尖閣諸島に関する資料調査報告書』pp.89-92(資料No.47、48)参照
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku06.pdf
※2 『平成31年度尖閣諸島に関する資料調査報告書』pp.103-106(資料No.54、55、56)参照
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/img/data/archives-senkaku06.pdf

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