尖閣諸島に関する資料の委託調査報告書

平成29年度報告書に掲載された資料例

  1. 沖縄県管轄尖閣群島図(旧名魚釣久場島)(1899年(明治32年))
  2. 黄尾島 [地学雑誌所収久場島開拓写真](1900年(明治33年))
  3. 明治時代の尖閣諸島の写真(『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜の件』に添付されている写真)
  4. [1908年(明治41年)魚釣島、久場島開拓写真]
  5. 沖縄県警察統計表 明治24年
  6. 図表 [沖縄県警察区画地図及び一覧表]
  7. 琉球警察警備艇あかつきの尖閣諸島派遣(八重山毎日新聞記事1953年(昭和28年))
  8. 尖閣列島波高し(不法入域者に対する警告板の設置)
  9. 警察署管轄図
  10. 「琉球切手:海洋シリーズ第3集(海鳥と海と島)」(切手シートと初日カバー)
  11. 尖閣諸島の海鳥たち
  12. 皇明実録(万暦四十五年八月の条)

1. 沖縄県管轄尖閣群島図(旧名魚釣久場島)(1899年(明治32年))

所蔵機関:東海大学付属図書館清水図書館

 1899年(明治32年)頃に作製されたと考えられる 尖閣諸島略図。
 『沖縄県管轄尖閣群島図』と尖閣諸島が沖縄県の行政区域のなかに含まれていることを明示している。本図の製作者である尾滝延太郎は、尖閣諸島の開拓で有名な古賀辰四郎の甥であり、当時、同諸島開拓の監督にあたっていた。図中、魚釣島(和平山)及び久場島(黄尾島)にそれぞれ汽船錨泊地が記されていることから、この時期すでに両島へ蒸気船の寄港があったことがうかがえる。

沖縄県管轄尖閣群島図(旧名魚釣久場島)(1899年(明治32年))

2. 黄尾島 [地学雑誌所収久場島開拓写真](1900年(明治33年))

所蔵機関:東海大学付属図書館清水図書館

 1900年(明治33年)に尖閣諸島久場島に滞在して調査した宮島幹之助(みやじま・みきのすけ)が「地学雑誌」に報告した論文に添付した写真及び地図。これらの写真からは、久場島開拓のため海岸付近に建設した家屋や島に生息するアホウドリ(信天翁)が確認できる。また、地図には、開拓者の居住地域に「古賀村」と記されていることから、当時、いくつもの家屋がつくられ、一定数の居住者がいたこと、また、馬追原(うまおいばる)、赤川原(あかがわばる)等といった地名が付けられていたことがうかがえる。

黄尾島 [地学雑誌所収久場島開拓写真](1900年(明治33年))

3. 明治時代の尖閣諸島の写真(1900年(明治33年)、1908年(明治41年))
(『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜の件』に添付されている写真)

所蔵機関:国立公文書館

 尖閣諸島の開拓等に功績があった古賀辰四郎への藍綬褒章下賜について、1909年(明治42年)5月31日、沖縄県知事日比重明(ひび しげあき)が農商務大臣大浦兼武(おおうら かねたけ)に具申したところ、同年9月8日、農商務大臣大浦兼武は賞勲局総裁伯爵正親町実正(おおぎまち さねまさ)宛にその旨を具申した。今回掲載した写真資料は、農商務大臣発賞勲局総裁宛文書の別紙として添付されていた沖縄県知事発農商務大臣宛上申書の別添中、古賀辰四郎作成の事業経営書「16(附録)地図及び写真」に収録されている写真であり、その中に、尖閣諸島の開拓に関する写真(1900年(明治33年)、1908年(明治41年)撮影)等が収められている。
 そして、古賀辰四郎は沖縄県における水産業の進展への貢献と尖閣諸島開拓の実績を日本政府に認められ、1909年(明治42年)11月22日、藍綬褒章を下賜された。

明治時代の尖閣諸島の写真(1900年(明治33年)、1908年(明治41年))(『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜の件』に添付されている写真)

4. [1908年(明治41年)魚釣島、久場島開拓写真]

所蔵機関:沖縄郵便史研究家 石澤司氏 所蔵

 個人が所蔵する写真。魚釣島の写真を見ると、「明治時代の尖閣諸島の写真(『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜(らんじゅほうしょうかし)の件』に添付されている写真)」(※)と同じ人々が写っていることから、これらは、同じ時期(1908年(明治41年))に写された写真と推測される。
※本報告書資料No.3(P12)参照

[1908年(明治41年)魚釣島、久場島開拓写真]

5. 沖縄県警察統計表 明治24年

所蔵機関:国立国会図書館

 沖縄県警察部が編纂した同県警に関する年次報告書のうち、1891年度(明治24年度)の報告書。同年12月に、阿根久場島(※)を暫定的に八重山島警察署の所轄として取り扱うよう、沖縄県知事から同署に対して命令が出されたことが記されている。
 このように、この資料は、尖閣諸島の領土編入以前から、沖縄県が暫定的に同諸島を警察の所轄区域として管理を試行していたことを示している。なお、資料本文中に「警察所轄『仮に』八重山警察署に付す」とされているのは、まだ尖閣諸島が正式に領土編入される前の時期であるため、正式な行政行為としての警察による管理を行うことができなかったためである。
※阿根久場島は尖閣諸島の別称で、地元沖縄県及び八重山地方で当時このように呼称されていた。

沖縄県警察統計表 明治24年

6. 図表 [沖縄県警察区画地図及び一覧表]

所蔵機関:那覇市歴史博物館

 1893年(明治26年)末に沖縄県が刊行した警察区画地図及び警察区画一覧表と考えられる。表面は沖縄県略図が記されており、尖閣諸島について、釣魚島、久場島、久米赤島と記されている。裏面は警察署区画の一覧表であり、八重山島警察署の管区として無人島阿根久場島(尖閣諸島)が明記されている。
 沖縄県は、尖閣諸島を、編入前の1891年(明治24年)時点で『仮に』同県八重山島警察署に付していたものであるが(※)、1893年(明治26年)時点においても、特段変更されることなく、同諸島は同県八重山島警察署の区画として仮置きされていたことうかがえる。
※本報告書資料No.5(P20)参照

図表 [沖縄県警察区画地図及び一覧表]

7. 琉球警察警備艇あかつきの尖閣諸島派遣(八重山毎日新聞記事1953年(昭和28年))

所蔵機関:沖縄県立図書館

 1953年(昭和28年)の3月~4月にかけての八重山毎日新聞記事。戦後尖閣諸島は石垣町(1947年(昭和22年)より石垣市)の行政区画とされていたが、主島である石垣島から遠く離れており、戦時中には、すでに無人島となっていた。そのため、戦後間もない時期に、尖閣諸島が海賊行為や密貿易の根拠地になっているという噂があった。1953年(昭和28年)、琉球警察は、石垣港に配備されていた警備艇あかつきに司法官及武装警官総勢9名を乗船させ、尖閣諸島に派遣し、現地調査を実施した。その結果は、座礁したという船は全く見当たらず、「海賊船云々はたんなる風評だろう」というものであった。
 なお、これら調査は石垣市の地元紙である八重山毎日新聞紙上で報道された。

琉球警察警備艇あかつきの尖閣諸島派遣(八重山毎日新聞記事1953年(昭和28年))

8. 尖閣列島波高し(不法入域者に対する警告板の設置)

所蔵機関:沖縄県立図書館

 尖閣諸島における不法入域者への実効的な対策として、USCAR(米国民政府)は1968年(昭和43年)9月3日付の琉球政府行政主席あて書簡で、同諸島に立入る為には入域許可が必要なことを知らせる警告板の各島への掲示を提案し行政主席も賛同の回答を返書した。
 その後、警告板の設置は1970年(昭和45年)7月、出入管理庁監督のもと実施された。本資料は設置業務に従事した琉球政府建設局八重山建設事務所職員の回想録である。
 警告板の設置場所、現場作業にあたっての修正点や碇泊場所など、具体的な状況がうかがえる。

尖閣列島波高し(不法入域者に対する警告板の設置)

9. 警察署管轄図

所蔵機関:沖縄県立図書館

 沖縄返還(1972年(昭和47年)5月)の直前の同年4月付けで発行された1971年度(昭和46年度)琉球警察統計書。警察署管轄図において、八重山警察署(石垣市)の管轄区域として尖閣諸島を記載している。
 沖縄返還直前期においても、琉球警察が尖閣諸島を適切に管理していることがうかがえる。

警察署管轄図

10. 「琉球切手:海洋シリーズ第3集(海鳥と海と島)」
(切手シートと初日カバー)

所蔵機関:沖縄県立博物館・美術館(デザイン原板)

海洋シリーズ3 切手シート:
同 初日カバー:
県博所蔵 デザイン原板:安次富長昭氏作
 沖縄返還前の1972年(昭和47年)4月14日に琉球政府が発行した切手(※)。
 初日カバーに同封されている説明には、「沖縄で海鳥群の見られるところとして、八重山石垣市に属する無人島などが上げられるが」との記載があるが、石垣市に属する無人島で、アホウドリが生息する島であること、及び絵の構図から考えるに、切手のデザインとなった島は尖閣諸島の南小島、北小島であると考えられる。前述の通り、正式には『海鳥と海と島』という名称の切手ではあるが、俗に『アホウドリと尖閣の海と南小島』と呼ばれることもある。
 ※沖縄の施政権が日本に返還されたのは、1972年(昭和47年)5月15日。

「琉球切手:海洋シリーズ第3集(海鳥と海と島)」(切手シートと初日カバー)

11. 尖閣諸島の海鳥たち

所蔵機関:個人蔵

 東シナ海に浮かぶ無人島群である尖閣諸島は、アホウドリをはじめとする海鳥類の生息地としても知られている。切手(※)に類似する、過去に実施された学術調査の際に研究者が撮影した写真を紹介する。
※本報告書資料No.10(P31)参照

尖閣諸島の海鳥たち

12. 皇明実録(万暦四十五年八月の条)

所蔵機関:国立公文書館

 1617年(元和3年)、長崎から福建に派遣された明石道友(あかしどうゆう:長崎代官の部将)に対して、明国福建の海道副使(海防兼外務の監察長官)である韓仲雍(かんちゅうよう)が、福建沿岸の海防範囲の外縁の六島(東湧など)を列挙した上で、「此の外の溟渤(めいぼつ)は、華夷の共にする所なり(この外の大洋は明国と諸外国とが共用する海である)」と述べた記録。
 東湧が尖閣東西航路の最西端に位置する島であることを踏まえると、明国福建当局から日本政府の使者に対して、尖閣海域全航程が福建(明国)の海防範囲の外にあると、ほぼ公式的に告げたものといえる。
 このように、本資料は、地理的に尖閣諸島の遥か西方の列島線が明国の海防範囲の限界線であったことを極めて明瞭に示すものである。

皇明実録(万暦四十五年八月の条)
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