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時代別テーマ解説

時代区分 II 沖縄県が調査を行って以降、領土編入前まで

(1) 沖縄県による尖閣諸島の調査と所轄編入の上申

1. 沖縄県による尖閣諸島の調査と所轄編入の上申

 1880年代に入り、欧米列強の東アジアへの進出が強まり、清仏戦争(※1: 1883~85年)に続いて、巨文島事件(※2:1885年4月)が勃発するなど、東アジアでの緊張が高まった。このため、政府は周辺離島の監視を強化する方針を打ち出し、沖縄県令(西村捨三)は、1885年9月22日付で内務卿に尖閣諸島の調査予定を報告し、国標建設の指揮を請う上申を行った。

 その後沖縄県は、魚釣島に上陸して調査を行いNo.4No.5、他国の支配の形跡がないことを確認し、再度、政府に国標建設について上申した。これに対し、政府としては、国際情勢や他国との関係を勘案し、国標建設を見合わせている。

 これ以降、領土編入(沖縄県への所轄編入)が閣議決定されるまでの約10年の間、沖縄県は政府に対して二回の所轄編入の上申を行った。資料調査では、沖縄県が管下にある島嶼としての尖閣諸島に対する認識を持っていたことを示す地図を確認したNo.6

  沖縄県による1885年の尖閣諸島の調査は、国防上の理由から実施され、この調査以降、沖縄県は管下にある無人島として尖閣諸島を認識していたことを確認した。

1885年、沖縄県は、内務省の指示により尖閣諸島の調査を実施するとともに、同諸島の沖縄県への所轄編入の上申を行った。

※1 1883年から1885年にかけて、ベトナムの宗主権を巡って清仏間で勃発した戦争。
※2 1885年(明治18年)4月、英露が対立し朝鮮南部の離島である巨文島を英国海軍が占領した事件。

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