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時代別テーマ解説

時代区分 IV < 韓国大統領による「海洋主権宣言」以降 1952年(昭和27年)1月~ >

(1) 韓国による竹島の不法占拠と日韓の応酬

1. 李承晩ラインの一方的設定と竹島の不法占拠

 既述のように、サンフランシスコ平和条約において、竹島は日本の領土であることが確定したことは明らかである。

 しかし、李承晩韓国大統領は、同条約発効前の1952年(昭和27年)年1月18日(同条約は同年4月発効)、国際法に反して、いわゆる「李承晩ライン」を一方的に設定し、同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、そのライン内に竹島を取り込んだ。

 これに対し、日本政府は、 同年1月28日付で抗議の口上書No.51を韓国政府に送付した(※1)

 その後、1954年(昭和29年)6月、韓国が竹島に海洋警察隊を派遣し、竹島の不法占拠が決定的となった。

2. 日韓の応酬※関連年表(下)参照

 上述の1952年1月28日付の口上書No.51を含め、日韓両政府間で発出された竹島問題に関する口上書は、日韓の国交が正常化した1965年(昭和40年)までに日本側32通、韓国側24通を数えた。

 日本政府は、竹島が日本国領土であること及びその正当性について詳述した口上書『竹島に関する日本政府の見解』を1953年(昭和28年)7月13日(第1回)No.52、1954年(昭和29年)2月10日(第2回)、1956年(昭和31年)9月20日(第3回)及び1962年(昭和37年)7月13日(第4回)に送付した(※2)。韓国政府はそれらに反論する口上書を1953年(昭和28年)9月9日(第1回)、1954年(昭和29年)9月25日(第2回)及び1959年(昭和34年)1月7日(第3回)にそれぞれ送付した。

 日本政府は一貫して、1905年(明治38年)の竹島の島根県編入にも見られるとおり、竹島の平穏かつ継続的な支配が国際法上、竹島領有の根拠となることを述べ、朝鮮半島にあった政府がそれ以前に竹島を領有していた根拠を示すよう韓国政府に求めた。

 また、1954年9月25日には日本政府が口上書で竹島問題の国際司法裁判所提訴への付託を提案し、同年10月28日には韓国政府が口上書でそれを拒否する応酬が行われている。

関連年表(1965年まで。下線は、竹島の領有をめぐる日韓両国政府の主張に関する口上書)

※1 米国は、1952年(昭和27年)2月11日付で韓国に対し、韓国の海洋主権宣言が全ての国に認められる公海上の権利を侵害することになるとの深い懸念を示しつつ、このような宣言が認められるのであれば、どの国でも一方的に宣言を発出することで公海を領海に転換することが可能になってしまうとも指摘した。
※2 1954年(昭和29年)2月10日の口上書は竹島資料ポータルサイト(「竹島の領有権問題の国際司法裁判所への付託につき韓国政府に申入れについて」1954年(昭和29年)11月、外務省情報文化局『海外調査月報』4巻11号)に掲載

海上保安庁による巡視
- 銃撃事件の発生

 島根県水産試験場試験船島根丸が1953年(昭和28年)5月28日、対馬暖流開発調査の実施中、竹島に上陸し、調査を行った際、韓国人漁夫が上陸しているのを発見し、島根県庁に報告した。
 この後、6月22日から6月28日にかけて海上保安庁第8管区海上保安本部が竹島周辺密航・密漁取締を実施したのは既述の通りである。
 1953年7月12日には、竹島近くで海上保安庁第8管区海上保安本部境海上保安部の巡視船「へくら」が、竹島から数十発銃撃を受ける事件が発生した。その後も、1954年8月23日と同年11月21日に巡視船への銃撃、砲撃事件が勃発している。
 資料調査では、『日本海新聞』に、竹島近海を哨戒する境海上保安部巡視船「へくら」と「ながら」の写真を掲載した1954年元日一面の記事が、また、同月12日にも巡視船の活動を伝える写真付き記事を確認したので紹介する。

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