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時代別テーマ解説

時代区分 III 戦後、サンフランシスコ平和条約発効前後 1945年~1952(昭和27年)頃

(2) サンフランシスコ平和条約の起草経緯

サンフランシスコ平和条約起草時における関係国協議経緯

 第二次世界大戦後、日本の戦争状態を終結させたサンフランシスコ平和条約は、「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原、及び請求権を放棄する」と規定した(下囲み参照)。この規定が起草された経緯を確認すれば、意図的に竹島が条文から除外されたことがわかる。

 サンフランシスコ平和条約の起草経緯で、韓国は日本が放棄する領域に竹島を含めるよう要求したもののNo.42竹島は日本領であるとして、米国はそれを拒否したことNo.43が知られている。米国が公開した外交文書から、日本が放棄する「朝鮮」に「竹島」が含まれていないことは明らかであるが、資料調査事業においては、平成28年度から米国資料の原本を確認しつつ、平成30年度からは、公益財団法人日本国際問題研究所と連携して、英国、豪州等において調査を行い、米国が主要関係国とどのように意見調整を図り、署名国の総意として合意することのできる規定を作成したのかを明らかにする資料を収集してきた。

 その結果、サンフランシスコ平和条約の起草に当たって、第2章(領域)について英豪など連合国の一部及び韓国が高い関心を有し、調整の過程で、様々な意見交換が行われ、原案が書き換えられていることを再確認し、米国の見方だけではなく、これらの国々との協議過程を明らかにすることができた。

 以下に、サンフランシスコ平和条約の起草過程と、資料調査事業で確認した資料の位置付けについて説明する。

サンフランシスコ平和条約
第二章(領域)
第二条

(a) 日本は朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 

San Francisco Peace Treaty
Chapter II Territory
Article 2

(a) Japan recognizing the independence of Korea, renounces all right, title and claim to Korea, including the islands of Quelpart, Port Hamilton and Dagelet.

※サンフランシスコ平和条約の和文では「欝陵島」とされているが、一般には、「鬱陵島」の漢字が用いられる。
本文中では、文脈に応じて、条文抜粋の時のみ「欝」の字を用い、その他の場合は原則「鬱」の字を用いる。

1. 日本の敗戦とポツダム宣言の受諾

 日本は、1945年(昭和20年)8月、ポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。ポツダム宣言第8項は、「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」としている。すなわち、四つの島以外の日本の領域は、「吾等」(宣言署名者は、米中英の代表:※1)が決定することになっていた。そして、その決定は、戦争状態を法的に終結させるための条約であるサンフランシスコ平和条約において行われた。

2. サンフランシスコ平和条約の起草経緯

 条約の起草作業は、米国においては、1947年(昭和22年)頃から国務省内で準備作業が開始され、1950年(昭和25年)以降、他の連合国との間で意見調整が進められた。終戦後、東アジアにおいては、1949年(昭和24年)10月中華人民共和国成立、翌1950年6月朝鮮戦争勃発と共産化の勢いが強まり、状況が流動化していた。その流れの中にあって、1949年9月の米英外相会議において早期対日講和について議論され、翌1950年4月にトルーマン大統領によって国務長官顧問に任命されたダレス元上院議員は、早期講和に向け活動し始めることなる。

1. 米国草案

 1947年に米国国務省が最初に作成した草案では、竹島は、日本が放棄する朝鮮の一部に含まれるとされていた。しかし、その後、情報収集・分析を進めた結果、1949年末に作成された草案では、竹島は日本の領域を構成する島嶼の一つとされた。
 1950年(昭和25年)夏、草案全体の構成が見直され、日本の領域を列挙するのではなく、日本から分離する領域を規定する構造になった。これにともない、条文上、竹島が日本の領域であるとする規定もなくなった。

2. 米国と各国の間の意見調整

 米国は、関係国との条約交渉に先立ち、条約草案の作成に当たっての基本的な考え方をまとめた「対日講和7原則」No.37を極東委員会構成国に示し、意見照会した。
 1950年(昭和25年)10月、オーストラリア外務省は、書面で質問を提出し、日本の領域に関し詳細な情報を米国に求めた。これに対し、米国は、日本が竹島を引き続き保持する旨回答しておりNo.37、日本の保持する領土に関する条文がなくなっても、米国が竹島を日本領として保持する方針に変りはなかったことがわかる。
 米国は、一連の関係国との意見交換を踏まえ、対日講和を英国との協力の下で行うことが望ましいと判断し、米英共同で対日講和会議を招請し、平和条約の共同草案を作成する 方向で、翌1951年1月頃から米英間で協議を進めた。
 米英両国は、共同草案の作成に向けてそれぞれ原案を作成し、1951年(昭和26年)3月には米国の、4月には英国の原案が揃うこととなるNo.38。この時点で、領土の規定の仕方について考え方が異なっていた。 米国案は朝鮮、台湾など日本から分離する領土を規定するのに対し、英国案は日本を線で囲み、その線の内側の島に日本の主権が継続するとしていた。

3. 米英協議

 1951年(昭和26年)4月25日から5月4日にかけて、米英事務レベル協議が行われ、共同草案について概ね合意に達したNo.40。日本による朝鮮の放棄に関する規定についても、この協議で一致し、米国と英国の双方の趣旨が反映された折衷案となっている。
 すなわち、5月2日の第7回協議において、領域条項については、日本の領域の範囲を表記するのではなく、日本が放棄する地域を規定する米国草案の構造をとることで一致した。英国は、日本と朝鮮の間にある島の帰属を曖昧にすると将来紛争の原因になるとの見方からNo.39、その帰属を明記すべき旨主張し、 その結果、単に朝鮮を放棄するとしていた米国案の規定に「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」との文言を加えることとなったNo.40
 この調整過程は、5月3日の米英共同草案No.41に反映され、その後の協議を経て6月14日付の米英共同草案が作成され、実質的に案文が固まった。

4. 関係国との協議

 1951年(昭和26年)7月、米英共同草案は関係国に提示され協議に付されたが、第2条a項の朝鮮放棄規定は、変更されることなく採択された。

5. 韓国からの修正要求

 米英共同草案は韓国にも提示され、1951年(昭和26年)7月、韓国は、米国務長官宛書簡によって、竹島を朝鮮領とすること等を内容とする修正を要請したNo.42
 この韓国の修正要求に対し、米国は書簡No.43を発出し、竹島に関する要請については、日本領であるとの認識を示した上で拒否すると回答した。(※2)

3. 竹島の領有根拠としてのサンフランシスコ平和条約

 上述の条約起草過程を見ることにより、条約の起草者は、第2条a項の「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮」を放棄するという条文について、竹島は日本に帰属するという認識をもって作成されたことが理解できる(※3)

※1 ソ連も対日参戦に際し参加。また、「ポツダム宣言の条項を誠実に履行すること」が定められた降伏文書(1945年9月2日)には、さらにオーストラリア、カナダ、オランダ、ニュージーランドの代表も署名している。
※2 韓国の要請のうち、竹島に関するもの以外については、受け入れられている部分もあり、結果、草案は修正された(第4条a項修正、b項挿入)。つまり韓国は、条約の起草過程に意見を述べる機会を与えられていたが、竹島に関する要請については、個別に内容が検討された上で拒否された。
※3 国際法上、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈する」(条約法に関するウィーン条約第31条第1項)。そして、この方法によって得られた意味を確認するため、またはこの方法による解釈では意味があいまいな場合に意味を決定するため、「解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができる」(同第32条)。なお、サンフランシスコ平和条約第22条において、「…条約の解釈又は実施に関する紛争が生じたと認めるときは、紛争は、いずれかの紛争当事国の要請により、国際司法裁判所に決定のため付託しなければならない。」とされている。ただし、韓国は同条約の締約国ではない。

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