本サイトに掲載する資料等は、政府の委託事業の下で有識者の助言を得て、調査・収集及び作成したものであり、本サイトの内容は政府の見解を表すものではありません。このサイトについて

時代別テーマ解説

時代区分 I 幕府の許可により大谷家、村川家が鬱陵島、竹島に渡航を始めて以降(江戸時代)

(2) 竹島に関する認識

解説動画 江戸時代の竹島と安龍福の供述 Part 2

再生時間 / 00:12:45 Youtube

解説

 この解説動画では、江戸時代、米子の町人である大谷家と村川家が鬱陵島に渡海し、その途次、竹島を船の係留地として、また、アシカやアワビの漁場として利用していたことなどを紹介するとともに、現在、韓国政府が竹島領有主張の根拠の一つとする、「安龍福」※1の供述について、それが根拠として成立しないことを解説します。

 Part1では、大谷家・村川家が1618年(元和4年)以降※2、幕府公認の下で鬱陵島及び竹島に渡海し、産品を獲得するなど事業を営んでいたことや、渡海の様子を中心に紹介し、竹島が人々に知られる存在であったことを説明します。 その上で、1692年(元禄5年)、村川家の船が鬱陵島に着くとそこには朝鮮国の漁民がいたこと、その翌年、大谷家が鬱陵島に渡海しても同様の状況で漁ができず、その証拠として朝鮮国の漁民のうち、安龍福と朴於屯の二人を日本に連れ帰ったこと(後に朝鮮国に送還)を紹介します。そして、その後の経緯として、日本側は、朝鮮に鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を始めるが決裂、1696年1月、幕府は、朝鮮との友好関係を尊重して、大谷家・村川家の鬱陵島への渡海を禁止したこと、その一方で竹島への渡海は禁止されていないことなどを説明します。

 Part2では、安龍福の供述を基にした韓国政府の竹島領有主張に、全く根拠がないことを解説します。 安龍福は、1696年(元禄9年)5月、「鳥取藩に訴えがある」と言って隠岐島に現れ、代官所の役人による取調を受けた後、鳥取藩に行くも幕府の指示により追放されました。安龍福は帰国後、江原道の長官によって捕らえられ、「備辺司」と呼ばれる国境地帯の防備を扱う機関で取調を受け、その時の供述内容が朝鮮王朝の記録である『粛宗実録』(しゅくそうじつろく)に収録されました。韓国政府は、『粛宗実録』の内容を基に独自の竹島領有主張を展開していますが、それは、隠岐島で供述した内容と大きく異なっています。動画では、安龍福による隠岐島における供述内容と、備辺司における供述内容を比較・検討することで備辺司における供述内容に全く信ぴょう性がないこと、さらには、朝鮮国が当時、安龍福の言動を日本政府(朝鮮との窓口であった対馬藩)に対して否認したことも紹介することで、現在の韓国政府の主張が成立しないことを解説します。

※1:安龍福は、17世紀に2度日本へやってきた朝鮮国の人物で、韓国では、竹島を韓国領として日本に対して主張し、その要求を日本側に認めさせた英雄とされ、鬱陵島には石碑まで建立されている。
※2:1625年(寛永2年)とする説もある。

ページの先頭に戻る