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時代別テーマ解説

時代区分 I < 幕府の許可により大谷家、村川家が鬱陵島、竹島に渡航を始めて以降(江戸時代) >

(2) 竹島に関する認識

 大谷家、村川家が鬱陵島への渡航の途次、竹島に立ち寄っていた話は、大谷家文書や、後年編纂された郷土史など様々な資料に記述が見られ、江戸時代、日本では竹島を正確に認識していた。

 大谷家文書の中には、石井宗悦という町人が、大谷道喜に宛てた書簡があり、それには、村川市兵衛が竹島のアシカを鉄砲で撃ったら、鬱陵島に逃げていくだろうなどと書かれているNo.9

 1696年(元禄9年)に江戸幕府が鬱陵島への渡航を禁止するにあたって、鳥取藩に対して状況を聞いた際、鳥取藩が回答のために準備した絵図にも竹島(当時の呼称は松島)が描かれており(右図)、そこに示されている内容からも竹島について正確な知識を獲得していたことが窺える。

 資料調査では、平成27年度、東京大学史料編纂所所蔵の「松島之図」を確認した(松島は江戸時代の竹島の呼称)。 これは、村川家が作成した絵図(※1)を1895年(明治28年)に筆写したものであり、竹島を単体で描いたものであるNo.11

※1 竹島資料ポータルサイト(資料番号:T1600000000103)

小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図
「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図」 所蔵:鳥取県立博物館
竹島(絵図中は松島)は、東西二つの島として描かれ、東側の島の浜に「舩すへ場」 の文字と小屋の絵が見える。
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