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総合的論点

コラム 1905年竹島領土編入措置の法的性質

中野 徹也 (関西大学)

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1. はじめに

 1905(明治38)年1月28日、日本政府は、次のような閣議決定を行った。

 「別紙内務大臣請議無人島所属二関スル件ヲ審査スルニ……明治三十六年以來中井養三郎ナル者該島二移住シ漁業二従事セルコトハ関係書類二依リ明ナル所ナレバ國際法上占領ノ事實アルモノト認メ之ヲ本邦所屬トシ島根縣所屬隠岐島司ノ所管卜為シ差支無之儀卜思考ス依テ請議ノ通閣議決定相成可然卜認ム」1

 これを受けて、内務大臣は,島根県知事に対し、上記の「島嶼ヲ竹島卜稱シ自今其縣島根縣所屬隠岐島司所管トス此旨管内二告示セラルヘシ」との訓令をくだした2。そして、島根県知事は,1905(明治38)年2月22日,隠岐島庁に対し、同様の訓令を下すとともに3、島根県内全域に向けて、竹島を島根県の所属とし隠岐島司の所管とするとの告示を発した4。同月24日、山陰新聞と松陽新報は、それぞれ「隠岐の新島」、「本縣新所管島竹島」という見出しで、この告示を報道している5

 さて、日本政府は,上記の閣議決定により、「竹島を領有する意思を再確認」したとしている6。したがって,閣議決定は、「それ以前に、日本が竹島を領有していなかったこと、ましてや他国が竹島を領有していたことを示すものではな」く、またその後とられた一連の編入措置は,「当時,新聞にも掲載され,秘密裏に行なわれたものではないなど,有効に実施されたものである」7。これに対し、韓国政府によれば、「自国の領土に対して領有するという意思を再確認したというのは、国際法上あり得ない弁明に過ぎず、そういう前例もない」8。また、島根県の告示によって独島の編入を試みたということは、「日本政府は独島が自国領ではないと認識して」いたことを示している9。いずれにしても、1900年に頒布された『勅令第41号』の規定に基づいて「引き続き独島を管轄し領土主権を行使してきたことは明白」であって、日本による編入措置は「長きに亘って強固に確立された韓国の領土主権を侵害した不法行為であり、国際法的にも全く効力」がない10。さらに、「島根県告示は,一地方政府による告示にすぎず,正規の外交的手続を通じて当時の韓国政府に通告されなかった。また隠密に行われたため,外国はもとより日本の一般国民でさえこれを知らなかった。したがって,一国の意思の公示とみなすことはできない」11
 このように、上記の閣議決定とその後の編入措置をめぐって、両国の主張は真っ向から対立している。しかし、韓国の主張には、国際法上の根拠がまったくない。本稿の目的は、それを論証することにある。それではまず、閣議決定に至るまでの経緯を見ておくことにしよう。

註1

「隠岐島ヲ距ル西北八十五哩ニ在ル無人島ヲ竹島ト名ヶ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為ス」。
「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。

註2

「訓第87号」。
「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。

註3

「島根県庶第11号」。
「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。

註4

「島根県告示第40号」。
「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。

註5

「隠岐の新島」(山陰新聞)。
「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。
「本縣新所管島竹島」(松陽新報)。
「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。

註6

日本外務省「日本の領土をめぐる情勢:竹島『竹島の島根県編入』2」で閲覧可能。

註7

1953年 7月13日付「竹島に関する日本政府の見解」。塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』(国立国会図書館、平成14年 6月号)(以下,塚本『レファレンス』として引用)60頁。

註8

東北アジア歴史財団「日本外務省の独島領有権主張に対する反駁文」11頁。駐日本国大韓民国大使館Webサイトに掲載されている。

註9

韓国外交部『韓国の美しい島、独島―パンフレット』、8頁、からダウンロード可能。

註10

同上8-9頁。

註11

1953年 9月9日「独島(竹島)に関する 1953年 7月13日付日本政府見解に対する翰国政府の論駁」。 塚本『レファレンス』(注7)60-61頁。

2. 閣議決定に至るまでの経緯

 中井養三郎は、鳥取県東伯郡小鴨村の出身で、当時は隠岐の周吉郡西郷町に在住していた。1903年から、当時「りやんこ島」と呼ばれていた竹島で、私財を投じ、漁舎を構えて、アシカ猟に着手するようになった。当初は、多大な損失を出したものの、翌1904年になり、好転の兆しが出てきた。ところが,事業として成立する見通しがつくようになると、多くの者がアシカ猟に参入し、同島周辺のアシカは濫獲により激減してしまった。そこで,中井は競争者を排除して事業を独占しようと画策し、同年 9月29日に上京し,島全体の貸下願を申請するにいたる12。中井の陳情は功を奏し、外務省の当局者から、「領土編入を急ぐべし」との回答をえた13。外務省の要請を受けて、明治政府は,島根県庁に意見を徴することにした。島根県が隠岐島司に意見をきいたところ14、隠岐島司は、日本の領土に編入し、隠岐島の所管に属させても何ら差し支えない、と回答した15。島根県はこれを上申し、内務大臣請議を経て,閣議決定へと至るのである。

註12

「りやんこ島領土編入并ニ貸下願」。「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。田村清三郎『島根県竹島の新研究〔復刻補訂版〕』40-43頁。

註13

この間の経緯については、奥原碧雲『竹島及鬱陵島〔復刻版〕』(ハーベスト出版)55-56頁、内藤正中・金柄烈『史的検証竹島・独島』(岩波書店、2007年)84頁。

註14

「庶第1073号」。「竹島資料ポータルサイト」で原本の見本を閲覧できる。

註15

内藤正中「竹島の領土編入をめぐる諸問題」『北東アジア文化研究』第24号(2006年)13頁。

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