本サイトに掲載する資料等は、政府の委託事業の下で有識者の助言を得て、調査・収集及び作成したものであり、本サイトの内容は政府の見解を表すものではありません。このサイトについて

他国の主張分析

コラム 台湾の一部分としての
釣魚台はどこにあるのか

平野 聡 (東京大学法学部教授)

※PDF形式のファイルをご覧いただくには、Adobe社が提供する「Adobe Acrobat Reader DC」が必要です。インストールされていない場合は、こちらよりダウンロードしてください。

1. 尖閣諸島は「台湾の一部分である」とする中国の主張

 中国政府は、「釣魚島【注:魚釣島の中国における呼び方】および付属島嶼は、中国の領土の不可分の一部である」と主張しています。そして「清朝は…釣魚島などの島嶼を…台湾地方政府の行政管轄下に明確に編入した」と称しています(中華人民共和国国務院報道弁公室「釣魚島は中国固有の領土である(釣魚島白書)」2012年9月25日(日本語版))。

 実際には、尖閣諸島は、1895年にまでどの国にも属しておらず、日本政府は、そのことを慎重に確認した上で自国の領土に編入しました。では、中国は、一体なぜ、何を根拠に尖閣諸島が「中国の領土である」と主張するのでしょうか。

 中国は、19世紀以前の前近代において、清朝が「台湾地方政府の行政管轄下に明確に編入した」ことを示す文書として、清の官僚によって記された『台海使槎録』と『重纂福建通志』等の書物を挙げ、この中に現れる「釣魚台」という地名が台湾のはるか北東に浮かぶ「釣魚島」を示すものであると主張しています(前掲「釣魚島白書」一(二))。

 たしかに、これらの書物には、中国が魚釣島の中国名のひとつと主張する「釣魚台」という地名が記されており、執筆された当時の清の官僚は、少なくとも、この地名を知っていたと言えるかもしれません。しかし、以下に説明するとおり、清の官僚はこの「釣魚台」を管理していたとは言えません。しかも、これらの書物にある「釣魚台」は、間違っても尖閣諸島ではなく、台湾島の海岸沿いにある岩山です。

 以下、この論稿では、中国が引用する『台海使槎録』と『重纂福建通志』という書物の具体的な内容と文脈を順にたどりながら、中国の主張を検証していきます。

2. 『台海使槎録』に見る清の台湾防衛論

 まず、『台海使槎録』について見ていきましょう(本論は、1957年に刊行された、台湾銀行経済研究室編、台湾文献叢刊版に依拠しています)。最初に、この文書が書かれた背景を解説した上で、「釣魚台」が記述されている部分について、その前の記述から文脈を追って説明していきます。その文脈の流れから、「釣魚台」という地名がどこを指しているかを特定することができます。

(1)『台海使槎録』について
― 18世紀の清の官僚が書いた台湾統治のための指南書

 『台海使槎録』は、清の官僚であった黄叔璥が1722年以後に執筆したものです。
 清は1683年に、台湾西部を支配していた鄭氏を滅ぼしたのち、着々と台湾への支配を進めていましたが、オーストロネシア系の原住民、福建省南部(閩南)出身の「福佬」、さらに、広東省東部出身の「客家」が入り乱れて「械闘」と呼ばれる土地争いが続いていました。
台湾での土地争いの原因は、福建・広東での生活に困窮した人々が新天地を求めて秘かに海を渡り、開発が十分には進まない中で人口が過剰になったことによりますので、そもそも秘かに台湾に渡航する人々を管理し制限しなければ、なかなか台湾統治はおぼつかなかったのです。

 いっぽう、当時の台湾には大きな軍事的課題がありました。台湾海峡を距てた台湾は、騎馬民族の満洲人やモンゴル人が支配の中心に座る清の都・北京からみれば遥か遠い場所でしたので、配備される軍隊も質が低かったのです。そのような中、明代に蒙った倭寇の苦い記憶は、当時の科挙官僚や沿海部の人々に共有され続けており、倭寇がいつ再び押し寄せてくるかにも備えなければならなかったのも確かです(実際には徳川の世になって以来、倭寇の襲来は止み、日本は清との関係を長崎での往来に限っていましたので、18世紀前半に福建の統治にかかわった藍鼎元という官僚のように「日本が全く来ないのであればそれで良い」という認識もありました)。

 そのような中1721年には、台湾南部・西海岸の、今日の高雄・台南を中心とした地域で、清の台湾統治を揺るがす「朱一貴の乱」と呼ばれる事件が起こりました。これは、清の地方官が困窮する民衆にさらに圧迫を加えることに怒った人々が、明の皇帝一族の末裔を名乗る朱一貴という人物のもと、明の復活・清の打倒をとなえて起こした武装蜂起です。清は福建省から澎湖島を経由して援軍を送り、何とかこの事件を制圧しましたが、台湾という、大陸から遠く離れ混沌とした島をどのように統治するのか、きわめて重い課題を突きつけられました。

 そこで清は、官吏登用試験「科挙」で「進士」に及第した高級官僚である黄叔璥に、混乱を経て間もない台湾を視察させました。その記録が『台海使槎録』であり、明代以来の台湾に言及した地理書・兵法書も参考として引用されています。この中で黄叔璥は、台湾における防衛の要として、港湾の管理について詳しく言及しており、その内容が詳しく記されているのが、「釣魚台」が現れる「巻二 赤嵌筆談 武備」という文章です。

 この文章はまず、明の時代における澎湖島への管理について、「方輿紀要」(→資料1)という書籍を引用し、倭寇をはじめとした海賊への対応、豊臣秀吉が朝鮮出兵に次いで台湾に侵攻する可能性への対処から、穏やかな湾口を持つ澎湖島を守り、さらに澎湖島の東南にある台湾の北港(今日の雲林県北港鎮)を守れば、 福建省沿岸を守ることにつながる、と指摘するものの、明末・17世紀前半の天啓年間に、紅毛(オランダ)に台湾を奪われたと記しています。 

 この後は、清が台湾を支配し始めた当初の官僚である季麒光という官僚が著した『東寧政事集』という書籍を引用し(→資料2)、今日の台湾南部の高雄市岡山区のあたりを振り出しに、西海岸を北へ向かう際に現れる地名を「北路」、西海岸を南へ向かう際に現れる地名を「南路」に位置づけます。 このうち「北路」をめぐって、「鶏籠・澹水に至れば、すなわち台湾の極北の島である。海中に突出して現れ、番社(原住民の地域)に連なる」という記述が現れます。鶏籠と澹水は、今日の基隆市と新北市淡水区にあたり、台湾を管理する官僚のあいだでは、17世紀末以後、この地域が台湾という地域の一番北であることが認識されていたことになります。 そして、「北路」の各地の港を、台湾海峡を挟んで真向かいにある福建省の港と対置させ、福建省の商人に対岸の台湾の港との貿易を促すことで、商業的にも軍事的にも台湾との結びつきを強めるのが良いという趣旨を述べています。 

 次いで、夏之芳という官僚が台湾を視察して1728年に著した『理台末議』という書籍を引用し、台湾における防衛力の配置が語られます(→資料3)。 この中で、陸については面積の広さと費用の節約に鑑みて、日常的には農作業に従事して非常時に武器をとる屯田制の実施を説いていますが、海については明代の海防論の常識を受けつぎ、「水師(海軍)は外洋において戦うことは出来ず、港に進んで鋒を交える。 ゆえに港湾こそが戦争の場所であり、水師を動かすには必ず港湾について詳しくなければならない。水師にとっての港は、陸師の城のようなものである」と述べています。

 以上のような引用文の趣旨からいって、『台海使槎録』の著者・黄叔璥の主な問題意識は、澎湖島と台湾島の経営拠点や戦いの場としての港湾を把握し、軍備を整えることにあるということが分かります。 

 そのうえで黄叔璥は、過去の澎湖島周辺の巡邏記録や、清の台湾領有当初において台湾の軍備を薄くし澎湖に集約しようとした案への批判、安平(台南) に置いた海軍力の陣容と毎年の巡邏の要領、民間船舶における打狗港(今日の高雄)の利用増、康煕年間における台湾西北沿岸部への支配拡大、台湾に配置した軍人の質的向上の必要性を列挙しています(→資料4)。 

 このように、清の本土からみた台湾戦略に関し、経緯や現状、問題点等についてまとめた後、いよいよ「釣魚台」の記述が現れます。 

資料 1

『台海使槎録』24~25頁より
洪武五年、湯信国が海上を経略するも、島民の叛服の信じ難きを以て近郭に徒るを議す。二十一年、尽く嶼民をうつし、巡司を廃してその地を墟とす。継いで而るに不逞の者がその中に潜み聚まる。倭奴の往来し、停泊して水を取ること、また必ずここを経る。嘉・隆以後、海寇曾一本らが屢々嘨聚して寇となる。万暦二十年、倭が朝鮮を犯す。哨する者いわく、まさに鶏籠・澹水を侵さんと。是に於いて兵を設け険を戍することを議す。二十五年、游兵を増設す。四十五年、倭は龍門を犯し、衝鋒の游兵を増す。その地は環衍すること二百余里にして(地はアルカリ性で水は渋く常に風が吹き農作には困難が多い )。……正中に峙するは曰く孃宮嶼。西嶼より入り、二十里にして茶盤となし、また十里にしてすなわち孃宮嶼たり。波は平らにして浪は息み……その状は湖の如し。因りて曰く澎湖、寛きこと船を泊めること可なり。(中略)
……万暦三十七年、紅毛の一舟、澎湖に闖入し、久しくしてすなわち去る。天啓二年、高文率は戍兵の単弱に乗じ、十余の船を以て澎島を突拠し、遂に山に因りて城と為し、環海を池と為し、浪を破りて長駆し、漳・泉を肆毒す。総兵兪咨皋は紅毛を北港に移し、乃ち澎湖を復せり。議して穏澳山に城基を開築し……此において戍守し、以て孃宮を控制す。然るに議者謂えらく、澎湖は漳・泉の門戸にして、北港は即ち澎湖の唇歯なり。北港を失えば、即ち唇は滅び歯は寒し。特に澎湖を慮るべきにあらず、即ち漳・泉もまた憂うべきなり。北港は澎湖の東南にあり、亦た之を台湾と謂う。天啓以後、尽く紅毛の踞するところとなる。

資料 2

『台海使槎録』26頁より
南路は大岡山より以下、下澹水(屏東県萬丹郷)・瑯嶠社に至る。北路は木岡山より以上、上澹水・鶏籠城に至る。その間の鳳山・傀儡山(ルカイ族地域)・諸羅山(嘉義)・半線山(彰化)の如きは、みな野番を扼するの衝たり。陸汛の必ず防ぐところとなる。鶏籠・澹水に至りては、乃ち台湾の極北の島たり。海中に突処し、番社に毗連す。後壠の一港、南日と対峙し、即ち興化の港口なり。後瓏から而して上れば、一百二十里にして竹塹社(新竹)となり、海に対して壇鎮となる。竹塹、而して上れば、一百五十里にして南嵌社となり、関[山+童]と対峙す。即ち福州・閩安の港口たり。南嵌より上澹水に至ること七十里、北に対して膠たり。澹水から鶏籠に至ること三百里、沙珵に対する烽火門にして、皆浙江の省界たり。大洋の外は、紅夷の出入の路にして、而して又郡域を遠隔し、港道は四達し、往来は一帆すれば直ちに上る。偽鄭は重兵を彼に於いて設け、紅夷を遠禦すると雖も、実に我が師の福興より分出し、以てその後を襲うを恐れるなり。鶏龍より閩安に至るは七・八更に過ぎず。若し閩安・興化等の港、商人の往来貿易を聴けば、利源を通裕するに止まるに非ず。万一意外の警あらば、即ち厦門・澎湖の師、以てその前に応ず。福・泉・興化の船は以てその後に応ず。首尾呼応し、緩急恃むべし。

資料 3

『台海使槎録』27~28頁より
台湾の水陸の制兵は盈萬し、費綦は重し。乃ち澎湖、安平の兵は居ることその半ばたり。水師は汛重するといえども、以て覈減するを容れず、台湾の兵は居ること其の半ばたり。陸路は汛広にして、また増すを議さざるを得ず。然るに節省すべきの道と至便の術あるべく、また籌を持する者の必ず講ずるところなり。台湾の原有の官荘、即ち屯田となすべし。その佃は即ち屯兵となすべし。加えるに以て訓練し、その節制を明らかにするに過ぎず、或いは古に倣う者、耕を七にして調を三とし、或いは要地に立ちて屯守す。寓兵の農の中におけること、特に兵の跋渉することなきに非ず、歳ごとに度支を免れて已むなり。……
陸師は馬力を重んじ、水師は舟力を重んず。戦陣の時、務めて上風を争い、而して運転すること霊ならざれば、上風を占居する能わず。圧持すること重からざれば、或いは反りて下風に退居す。これは人力と雖も、全は良舟にあり。……必ず良材を得て、軽重を配合せば、人の一身が筋骨を相配する如く、然る後に善く運動するなり。故に水師は必ず舟を造ることを論ず。……水師の湾泊は、猶お陸師の安営のごとし。凡そ水師は外洋において覓戦する能わず、みな港に進み鋒を交える。湾泊の処、即ち是れ戦争の場たる所以なり。……故に水師は必ず湾泊に明らかなる者、これその一なり。水師の港に入ること、猶お陸師の城を克するが如し。

資料 4

『台海使槎録』30~32頁より
康煕辛丑、兵部奏准す:澎湖は台湾の咽喉に係り、緊要適中の地たり。台湾の総兵を移して澎湖に駐し、台湾陸路は改めて副将を設けると。金門総兵黄英、奏して言う。澎湖は台湾の門戸と為す。今まさに台湾総兵を澎湖に移し改め、台湾に副将を設立し、水師と彼此接応し、遥かに形勢を度し、善を尽くすの謀、 此より大なるは無しと。臣が地勢の軽重を閲するに、澎湖は三十六島を称すると雖も、台・厦の中に居りて、究むるところみな一坏の土にして、錯落の弾丸たり。媽宮・八罩に人煙の略有するを除けば、余りは尽く冷落の荒嶼にして、副将を原設して侭堪にして防守す。茲に台湾の南北、延袤すること二千余里、村荘、番社、閭井の戸口、百余万を下らず、叢山と深林は最も奸を蔵すること易し。総兵に非ざれば、以て弾圧に資するに足らず。況んや安平の水師及び南北路の副・参各員は、台湾副将と職位は相上下せず、事あらば必ず各々己の見を懐き、 総兵の調度を行うこと可なるに若かず。今若し総兵を澎湖に設け、台湾と懸隔し、往来の船隻は倶に風の時を候つ。台湾の水陸各営はかりに緊急の事機あらば、朝に発して夕に至ること能わず。是れ、澎湖は固より台湾の門戸にして、而して台湾は実に澎湖の腹心たり。形勢は澎湖より重く、沿海各省の要害に関係す。まさに総兵をなおも台湾に設けるを請う。
……鳳山の打狗港は、鹿耳門(台南の西)から距てること、水程にして三更、北風盛んに発すれば、鹿耳門の港道は狭隘にして、舟は進むを得ず。而して打狗は帆を揚げて直ちに入る可し。此より岸に登る者甚だ多し。水師は総配の哨船二隻を把りて、領兵が汛を防ぐ。下澹水は邑から離れること既に遠く、奸宄滋り易し。陸路の千総の領兵が汛を防ぐ。この二処は、南路の水陸の扼要の地と為す。
偽鄭の台に在るとき、民人の往来は半線(彰化)にて止まる。版図に帰してより後、澹水等の処は亦た従りて人の蹤なし。故に北路の汛を営むこと、大肚にて百総一名を安設し、領兵が防守するに止まる。沙轆・牛罵(清水)の二社は、則ち境外となす。海より盗鄭は心を尽くして脱逃し、部文は行知せり。夥しき盗の供して称するに、鄭は心を尽くして、 約するところ、江・浙の交界の尽山・花鳥・台州の魚山・福建台湾の澹水等の処に蔵匿す。時を維して総兵崔相国、千総一員の領兵を分撥して澹水を分防す。よりて後、遂に以て常となり、而して業戸は開墾し、往来は漸く衆し。

ページの先頭に戻る