Senkaku Islands Research and Commentary Website

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時代別テーマ解説

時代区分 III 尖閣諸島の領土編入が閣議決定されて以降、第二次世界大戦終戦まで

(4) 尖閣諸島の開拓

1. 古賀辰四郎による開拓の始まり

 尖閣諸島が領土編入された翌1896年(明治29年)、古賀辰四郎(福岡県出身の海産物商人)は、国有地であった4島(南小島、北小島、魚釣島、久場島)の無償貸与を受け、1897年(明治30年)3月、 35名の出稼労働者を尖閣諸島へ派遣し、アホウドリの羽毛採取事業と島の開拓を開始、久場島を中心に開拓が始まったNo.39

 しかしながら、交通の不便のため開拓は難航し、状況打開のため、古賀が沖縄県知事(奈良原繁)に、大阪商船株式会社が運行する汽船の寄港を依頼していたことを資料調査によって確認したNo.40No.41。尖閣諸島の開拓者が作成した地図には、汽船の停泊位置が示されているNo.42

 羽毛採取事業は拡大したが、一方でアホウドリは激減していった。古賀は、尖閣諸島の開拓を継続するため新たな事業として、鰹漁と鰹節製造を計画し、魚釣島に製造工場を建設、そこを拠点として事業を展開した。

 1908年(明治41年)頃、鰹節製造事業は軌道にのり、尖閣諸島の開拓が進んだ。古賀による尖閣諸島の開拓がその絶頂期を迎えたのはこの頃で、この時期、出稼移民の総数は248名、99戸を数えたという(※1)

2. 評価された尖閣諸島の開拓と鰹節

 開拓の進展に伴い、古賀の活動は社会的に評価されるようになった。1909年(明治42年)、尖閣諸島の開拓と沖縄県下における海産物商としての実績が認められ、藍綬褒章を下賜された(※2)

 また、尖閣諸島で製造した鰹節は高く評価され(※3)、贈答品としても用いられた。平成31年度、那覇歴史博物館から複写物の提供を受けた書簡には、沖縄県事務官(河村彌三郎)の妻が、同知事官房に勤務していた横内扶の妻に、見舞いとして魚釣島産の鰹節を贈ったことが記されているNo.43

3. 開拓の様子を伝える写真類

 資料調査では、古賀辰四郎が褒章を受章する際に作成された『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜ノ件』に収録されている写真No.44の他、隆盛を迎えつつあった鰹節製造工場、そして島に滞在する人々の姿が収められた、1908年(明治41年)頃の撮影と思われる貴重な写真を個人からの情報提供によって確認したNo.45

4. 開拓事業の継承

 その後、古賀辰四郎は1918年(大正7年)に永眠し、子息である古賀善次に尖閣諸島における事業が継承された。

 平成31年度の資料調査では、古賀辰四郎が死去した日付が示されている官報を確認したNo.46

尖閣諸島の開拓を行政機関が支援し、尖閣諸島の開拓によって得られた産品が実際に利用されていた。

※1 『古賀辰四郎へ藍綬褒章下賜ノ件』(国立公文書館所蔵)
※2 沖縄県では、松田和三郎(沖縄県座間味間切長)に次ぐ人目の受章。
※3 1909年5月25日付『沖縄毎日新聞』は、大日本水産会が主催したカツオ節即売品評会で古賀が出品したカツオ節は、2等銀牌、本節10貫目に付き53円50銭で売れたと報じている。

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