Senkaku Islands Research and Commentary Website

本サイトに掲載する資料等は、政府の委託事業の下で有識者の助言を得て、調査・収集及び作成したものであり、本サイトの内容は政府の見解を表すものではありません。このサイトについて

時代別テーマ解説

時代区分 III 尖閣諸島の領土編入が閣議決定されて以降、第二次世界大戦終戦まで

(3) 尖閣諸島の調査

1. 行政機関による調査、行政刊行物

 既述の通り、1895年(明治28年)の尖閣諸島の領土編入(沖縄県への所轄編入)以降、種々の行政権の行使を通じて日本は尖閣諸島を有効に支配してきた。その中では、1899年(明治32年)の沖縄県理事土地整理事業における尖閣諸島の測量の他No.30No.31、行政官による尖閣諸島の視察等、行政機関による調査が行われた(※1)

 平成31年度の資料調査では、行政官による尖閣諸島の視察について、沖縄県技師(大山勇吉)の尖閣諸島行きを伝える新聞記事を確認したNo.32

 以降、1939年(昭和14年)には、農林省による資源調査が行われ、調査団(小林純、高橋尚之ら)が石垣島測候所技師(正木任)とともに尖閣諸島を調査した(※2)。資料調査では、この資源調査の計画資料も確認したNo.33
 他、行政刊行物も確認したNo.34No.35No.36

2. 学術調査の実施

 明治期には、尖閣諸島において2回の主要な学術調査が実施された。最初は、羽毛採取事業によってアホウドリが激減し、事業継承を危ぶんだ古賀辰四郎が宮島幹之助(帝国大学(現東京大学)理学士)に久場島のアホウドリ調査を依頼したものである。

 宮島は、黒岩恒(沖縄県師範学校教諭)を伴い調査を行い、『地学雑誌』に学術記事を寄稿して魚釣島、久場島の開拓の様子や動植物相を報告したNo.37

 二度目は、1908年(明治41年)6月、尖閣諸島各島に堆積する海鳥糞(グアノ)の採掘を事業化するため、古賀が恒藤規隆(農学博士)を招聘して行われた調査である。

 調査の結果は、恒藤が刊行した『南日本の富源』(1901年(明治43年))にまとめられ、後年、恒藤が著した回顧録の中でも、尖閣諸島の調査の様子に触れているNo.38
 この他にも調査予定があったことを資料調査では確認した(※3)。明治期の学術調査は、尖閣諸島の開拓者である古賀辰四郎が、各専門家を招聘する形で実施されたものが殆どであった。

行政機関が尖閣諸島の調査や管理を行い、また、民間レベルでの学術調査も行われ、日本は尖閣諸島に対して継続的なかかわりをもっていた。

※1 1904年(明治37年)に沖縄県事務官(岸本賀昌)、八重山島庁書記(中島謙二郎)、八重山警察署長(宮原景名)が前後して尖閣諸島を訪問したこと、1907年(明治40年)9月には沖縄県技師(大山勇吉)が、同年10月には八重山警察署長(内田輔松)、警部(春田昻氏)ほか1名が視察目的で訪問したことが古賀辰四郎の褒賞関係資料『藍綬褒章下賜の件』に記載されている。
※2 正木は、1941年に論文を発表し、各島の様子、生物について報告した。
※3 1909年(明治42年)4月、松岡操(農学士)が久場島へ視察予定であること、同時期に横浜植木株式商会の社員が尖閣諸島で栽培されている百合を視察予定であることが地元新聞に報じられている(「古賀商店の無人島回航船」『琉球新報』1909年3月29日付記事)。また、1910年(明治43年)4月、玉利喜造(農学博士)が魚釣島のカツオ節工場と久場島を視察している(「◎尖閣列島に於ける古賀辰四郎君の事業に就きて玉利善造君談」『琉球新報』1910年4月19日付記事)。

次のページは
時代区分 III(4)
ページの先頭に戻る