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時代別テーマ解説

時代区分 I 幕府の許可により大谷家、村川家が鬱陵島、竹島に渡航を始めて以降(江戸時代)

資料集 vol.3 江戸期の竹島の利用

④大谷家、村川家の鬱陵島への渡海禁止を伝える資料

幕府が大谷家、村川家の鬱陵島への渡海を禁止する通達 No.11 竹島(鬱陵島)渡海制禁の奉書(写)

1696年(元禄9年)1月28日

資料概要

 幕府が、村川市兵衛、大屋(谷)甚吉に許可した鬱陵島への渡海を向後禁止したことを鳥取藩主に伝える、1696年(元禄9年)1月28日付の老中連署の奉書。
 大谷、村川両家は、鬱陵島への渡海許可から70年以上、平穏に渡海を継続していたが、1692年(元禄5年)、村川家が鬱陵島に渡海すると、初めて朝鮮からの出漁者を発見した。村川家一行は漁が出来ずに帰国し、翌年、大谷家が渡海すると、その時も朝鮮人がいて漁が出来ず、その証拠として朝鮮人2名(安龍福ほか一名)を連れ帰った。この朝鮮人2名は対馬経由で送還され、これを契機として幕府は、対馬藩を窓口として朝鮮に鬱陵島への出漁禁止を求めた。
 幕府は、両国民の入り交わり防止および朝鮮との友好関係尊重のため、最終的に1696年(元禄9年)1月28日付で、大谷、村川両家の鬱陵島への渡海を禁止した。その決定を鳥取藩主に伝えたものがこの奉書である。
 ただし、現在の竹島については、両国民の入り交わりの問題は生じておらず、朝鮮国による領土主張も行われていなかった。

内容見本

先年松平新太郎
因州伯州領知之節
相伺之伯州米子之
町人村川市兵衛大屋
甚吉竹嶋江渡海
至于今雖致漁候
向後竹嶋江渡海之
儀制禁可申付旨
被 仰付候間可被存
其趣候 恐惶謹言
   土屋相模守
正月廿八日
   戸田山城守
   阿部豊後守
   大久保加賀守

現代語訳

先年、松平新太郎が因幡国伯耆国の領主であった時、米子の町人村川市兵衛・大屋甚吉の竹島(鬱陵島)渡海につき伺いがあり今に至るまで漁をしているといえども、向後竹島への渡海は制禁申しつけるとの上意があったので、その旨承知されたい。恐惶謹言
       土屋相模守
正月二十八日 戸田山城守
       阿部豊後守
       大久保加賀守

作成年月日 1696年(元禄9年)1月28日
編著者 -
発行者 -
収録誌 -
機関コード
言語 日本語
媒体種別
公開有無
所蔵機関 米子市立山陰歴史館
利用方法 米子市立山陰歴史館で利用手続きを行う
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