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他国の主張分析

5. 地誌編纂ルールに則った読み方

 「二島相去不遠 風日清明則可望見」は、字句としては(韓国政府の言うように)于山武陵の二島が互いに遠く離れておらず天気の良い日には眺めることができると読めます。しかし、地誌の記述としては別の読み方もありえます。政府が各道に地誌の撰進を命じる(上記3)に当たっては、各道の地誌を合せて国全体の地誌とするため記述に一定の指針が示されました。慶尚道地理志では、島は陸地からの距離と人の居住農作の有無(諸島陸地相去水路息数及島中在前人民接居農作有無)を記すとし、続いて寧海の丑山島につき、陸地相去水路二百歩無可耕之地としています5。この記述指針は直接的には慶尚道地理志のためのものであるものの、仮にこれに即して読めば、「二島は遠く離れておらず天候が清明であれば望み見ることができる」は、陸地からの距離に関する記述、つまり于山武陵が朝鮮半島から見える(遠島であり数値で示すことはできないものの天気の良い日に見える距離にある)という意味である可能性があります。ただし、実際には欝陵島は見えても竹島は朝鮮半島から見える距離になく、于山は竹島ではありません。

註5

註4の復刻版, p. 19. なお、記述の指針(“規式”)につき、下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書, 2004, pp. 162-166へ。

6. 新増東国輿地勝覧による確定

 天気の良い日に見える「見える対象」が欝陵島であること、つまり(欝陵島から于山を見るのではなく)朝鮮半島から欝陵島を見るという意味であることは、韓国政府が小冊子で挙げた(上記2下線部③)『新増東国輿地勝覧』(1531年)の記事によっていっそう明白になります6。同書には、


于山島 欝陵島 武陵とも云い羽陵とも云う。二島は県の真東の海中に在る。三峰高く険しく空を支え、南峰はやや低い。天候が清明であれば峰頭の樹木及び山の麓の渚が歴々と見える。風二日で到達できる。于山と欝陵は本来一つの島であるとも説かれる。地は方百里である。……


とあります(原文は資料2。ここで新増東国輿地勝覧は、世宗実録地理志の「二島は遠く離れておらず天候が清明であれば望み見ることができる」を「三峰高く険しく空を支え、南峰はやや低い。天候が清明であれば峰頭の樹木及び山の麓の渚が歴々と見える」と修正しています。つまり、二島が県の真東の海上にあるとしつつ、それに続く三峰高く以下は欝陵島一島の話になり、天候が清明であれば峰頭の樹木と山の麓の渚が歴々と見えると記されているのです(竹島は岩礁島であり樹木はありません)

註6

『新増東國輿地勝覧』巻四十五, ソウル: 東國文化社刊の影印本, 1958, p. 814.

資料2

『新増東国輿地勝覧』
巻四十五蔚珍県山川条

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<翻刻>
于山島 欝陵島 [分注]一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峯岌嶫撑空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴歴可見 風便則二日可到 一説于山欝陵本一島 地方百里 新羅時恃險不服 智證王十二年 異斯夫爲何瑟羅州軍主 謂于山國人愚悍 難以威服 可以計服 乃多以木造獅子 分載戰艦 抵其國 誑之曰 汝若不服則即放此獸 踏殺之 國人懼來降 高麗太祖十三年 其島人使白吉土豆 獻方物 毅宗十三年 王聞欝陵島地廣土肥 可以居民 遣溟州道監倉金柔立往視 柔立回奏云 島中有大山 從山頂向東行至海一萬餘歩 向西行一萬三千餘歩 向南行一萬五千餘歩 向北行八千餘歩 有村落基址七所 或有石佛 鐵鐘 石塔 多生柴胡 蒿本 石南草 後崔忠獻獻議 以武陵土壌膏沃 多珍水海錯 遣使往觀之 有屋基破礎宛然 不知何代人居也 於是移東郡民以實之 及使還 多以珍木海錯進之 後屢爲風濤所蕩覆 舟人多物故 因還其居民 本朝 太宗時 聞流民逃其島甚多 再命三陟人金麟雨 爲按撫使刷出空其地 麟雨言 土地沃饒 竹大如杠 鼠大如猫 桃核大於升 凡物稱是 世宗二十年 遣縣人萬戸南顥 率數百人 往捜逋民 盡俘金丸等七十餘人 而還 其地遂空 成宗二年 有告別有三峯島者 乃遣朴宗元 往覓之 因風濤 不得泊而還 同行一船 泊欝陵島 只取大竹大鰒魚 回啓云 島中無居民矣

『新増東国輿地勝覧』八道総図
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7. “独島”に対する統治の歴史は新羅時代に遡る?

 次に、「世宗実録地理志(1454年)に、鬱陵島(武陵)と独島(于山)が6世紀初頭(512年)に新羅に服属した于山国の領土と記されていることから、独島に対する統治の歴史は新羅時代にまで遡る」(上記2下線部②)という主張について検討します。

 世宗実録地理志に独島が新羅に服属した于山国の領土と記されているというのは事実に反します。世宗実録地理志(上記3)に竹島に関する記述はありません。世宗実録地理志の「新羅の時、于山国と称した。欝陵島ともいう。地は方百里である。」は、『三國史記』7(1145年)新羅本記第四 智證王十三年夏六月の記事「于山国は溟州[後の蔚珍県]の真東の海島に在る。欝陵島ともいう。地は方一百里」(原文は資料3を引き写したもの、次の、異斯夫(人名)が木で猛獣を作り于山国人を降伏させた云々も三国史記の于山国別名欝陵島の話、これに続く、高麗太祖十三年其の島人が産物を献上したというのも、その島は住民がいるのですから欝陵島のこと、毅宗十三年金柔立が大きな山があり村落の址が七か所あると報告した島、最後の、土地が肥沃で柱のように太い竹が生える島も、岩礁島の竹島ではあり得ず、欝陵島です。

 世宗実録地理志に“欝陵島(武陵)と独島(于山)が江原道蔚珍県に属する二つの島と記されている、この二つの島が6世紀初頭に新羅に服属した于山国の領土と記されていることから独島に対する韓国の統治の歴史は新羅時代にまで遡る”という主張は、根拠がありません8

註7

『三國史記』は、新羅、高句麗、百済の歴史を記した朝鮮半島最古の史書。高麗仁宗二十三年、金富軾ら撰(田川前掲論文 註3へ)。『三國史記』學習院東洋文化研究所 (學東叢書1), 1964, p. 33-34.

資料3

『三國史記』新羅本記第四 智證王十三年条
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<翻刻>
十三年夏六月 于山國歸服 歳以土冝爲貢 于山國 在溟州正東海島 或名鬱陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 爲何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威來 可以計服 乃多造木偶師子 分載戰舩 柢其國海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獸踏殺之 國人恐懼則降

註8

『東國文獻備考』「輿地考」(1770年)に「鬱陵と于山は全て于山国の領土であり于山は日本でいう松島」と記されているという主張(2下線部④)を介しての議論である可能性があるが、18世紀の論者の見解を根拠に15世紀の文献を解釈するのは不適。また、東国文献備考につき下條前掲書 (註5), pp. 100-103へ。

8. 結論―世宗実録地理志の于山は竹島ではない

 加えて、世宗実録地理志の記事(上記3)に名前のある安撫使金麟雨が赴いた島は、住民が多数いたのですから欝陵島であり竹島(岩礁島)ではありえませんが、太宗実録は、金麟雨が赴いた島を「于山島」と記しています9。太宗十七年(1417年)二月壬戌条に、


安撫使金麟雨が于山島から還り、産物である大竹、水牛皮、生の苧[紙の原料]、綿子、検樸木などの物を献じ、かつ、居人三名を率いた。その島の戸数凡そ十五、人口男女あわせて八十六。麟雨の往還である。再び大風に遇いかろうじて生を得た。


とあります(原文は資料4
 以上のことから、次のようなことである可能性が高いと言えます。つまり、新羅の時、于山国が欝陵島にあった(欝陵島=于山国)のが、いつしか于山が島の名称と考えられるようになり世宗実録地理志に于山欝陵二島が蔚珍県の真東の海中に在ると記されるに至った、しかし、当該記事の内容は当然のことながら欝陵島一島に関することにとどまり、太宗実録の金麟雨の記事のように15世紀に“于山島”が欝陵島の意味で用いられた例もある、ということです。世宗実録地理志の于山[島]は、架空の島であるか欝陵島のことであり、竹島ではありません。

<付>
 なお、18世紀以降の朝鮮地図に描かれた于山[島]のなかには、朝鮮国の官吏が定期的に欝陵島を巡検するようになったことから欝陵島の東方2kmにある小島が認識され、それを于山島に見立てたものもあります(例 資料5。この于山島は、朝鮮半島と欝陵島の間に描かれる架空の于山島(例『新増東国輿地勝覧』八道総図 資料2)とは異なり欝陵島の東側に実在しますが、韓国でジュクド、日本海軍の水路誌で竹嶼などと呼ばれる小島であり、これまた竹島ではありません。

註9

『太宗實錄』太宗十七年二月壬戌条, 國史編纂委員會『朝鮮王朝實錄 二』ソウル: 東國文化社, 1955, p. 146.

資料4

『太宗實録』太宗十七年二月壬戌条
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<翻刻>
○按撫使金麟雨 還自于山島 獻土産 大竹 水牛皮 生苧 綿子 檢樸等物 且率居人三名以来 其島戸凡十五 口男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颱風 僅得其生

資料5

大東輿地圖14(部分・19世紀?)
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