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時代別テーマ解説

時代区分 II 竹島が島根県に編入された1905年(明治38年)前後から終戦まで 明治時代~1945年(昭和20年)

竹島島根県編入ストーリー

解説動画 Part1 竹島への漁業者の進出

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解説

竹島島根県編入ストーリー
 この解説動画では、明治期、山陰地方の漁業者が活動の範囲を拡げ、竹島でアシカ漁を行う者が現れたこと、それから、実業家の中井養三郎が、政府に竹島の貸下願を提出しようと決心した経緯を紹介します。その後、中井が政府に行った説明と、政府とのやりとりの内容に触れ、1905年1月、竹島を島根県に編入する閣議決定に至ったことを説明します。
 そして、明治期に関する韓国政府の独自の主張に触れ、それに根拠がないことを解説します。

Part1:竹島への漁業者の進出
 Part1では、島根県の漁業政策にも後押しされ、山陰地方の漁業者の活動範囲が広がっていったこと、その過程で、竹島に立ち寄りアシカ漁を行うものが現れ始め、1903年、中井養三郎が人を派遣して竹島でアシカ漁を試みたことを紹介します。そして翌年、中井が渡島してみると、他にもアシカ漁を行う者がいて、既に過当競争状態となっており、中井は、乱獲からアシカを保護する必要を感じ、政府に竹島の貸下げを願い出たことを説明し、それがきっかけとなって、竹島が島根県に編入されるに至ったこと、つまりは、竹島の島根県編入が漁業者の進出を背景にしたものであったことを解説します。

Part2:中井養三郎の竹島貸下願
 Part2では、中井の竹島の貸下げ願いを契機とした日本政府による竹島の島根県編入に至る過程を詳しく紹介します。中井は当初、知己を頼って農商務省を訪ね、それから、海軍水路部、内務省を訪問したこと、その後、外務省の政務局長に面会して竹島について見解を聞き、それを内務省に伝え理解を得たことを説明します。その後、内務省が外務省に対し調整を図り、島根県に確認をした上で、竹島を島根県に編入する閣議決定が行われたことなど、協議や調整が図られた上で竹島が島根県に編入されたことを解説します。

Part3:根拠のない韓国政府の主張
 Part3では、韓国政府が、この時期に関し、「1900年の勅令で竹島を鬱島郡に編入した」、「中井養三郎は竹島を朝鮮領と考えていた」、「日本は軍事的価値から竹島を韓国から奪った」などという独自の主張を展開していること、そして、それに根拠がないことを示します。
 実際、1900年の勅令で鬱島郡に編入したとされ、韓国政府が竹島であると主張する島(「石島」)が竹島である証拠が示されていないことや、同勅令の請議書に示された鬱島郡の範囲に竹島が含まれないことなど指摘するとともに、竹島の島根県編入が望楼の建設などを目的としたものではなく、アシカの資源保存を企図した中井養三郎が政府に竹島の貸下願いを提出したことを契機としたものであることなどを振り返ることで、韓国政府の主張が成り立たないことを解説します。

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