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他国の主張分析

コラム 竹島紛争の原点―李承晩ラインをめぐって

坂元 茂樹(神戸大学名誉教授)

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1 はじめに

 1945年9月28日の米国のトルーマン宣言は、第2次大戦後の漁業水域制度の先駆けとなった。米国のトルーマン大統領は、有名な大陸棚に関する宣言とともに、「公海水域における沿岸漁業に関する米国の政策・大統領宣言第2668 号」を発出した。そのねらいは、漁業資源の保存と保護の必要性により、米国領海に近接する公海に保存水域(conservation zones)を設定し、持続可能な規模で漁業活動が発展し維持されることを目指そうというものである。

 トルーマン大統領は、同宣言において、①米国民のみが漁する保存水域については、そこでの漁業活動は米国の規制と管理(regulation and control)に服するとし、②他の国の国民も米国民と共に出漁する水域については、合意によって保存水域を設定し、当該水域における漁業活動は、合意に規定された規制と管理に服することを宣言した。国家が公海上においても自国民に対しては管轄権を行使しうることは自明であり、米国民のみが漁業に従事している場合に米国が規制と管理を及ぼしうることはこの宣言を待つまでもない。また、他の国の国民が漁業に従事している場合には、その国との合意に基づく規制と管理を行おうというのがその主張であり、こうした米国の主張に国際法上の問題は生じない1。しかし、1952年韓国政府によって設定された李承晩ラインの主張は、公海に対して一方的に自国の主権を及ぼすことをその内容としており、領海の拡大による他国民、すなわち日本の漁業者の排除にその目的がある。

 もっとも、国連国際法委員会の1958年の公海条約草案の特別報告者であったフランソワ(J.P.A. François)は、トルーマン宣言は、合意に到達するための交渉に言及するものの、米国民が特別の権利をもつ特別の水域の主張を行っているという事実を変えるものではないとし、漁業活動を行う他国民の入域を拒否することに否定的態度をとった2。また、ウォルドック(H. Waldock)も、セルデン(John Selden)の『閉鎖海論(Mare Clausum)』からグロチウス(Hugo Grotius)の『自由海論(Mare Liberum)』の動きに逆行することは明白であり、海洋の権利の合意に基づく性質を弱めてはならないとし、こうした一方的主張を戒めていた3。これに対して、米国の国務次官特別補佐官であったチャップマン(W.E. Chapman)は、「この宣言の目的は、国際水域にある漁業資源を乱獲から保護するために、法にもとづく新しい方法を規定することにあった。一国はそれ自身で国際法を変更することはできない。合衆国の宣言は、他国をして国際法体系への新しい原則の承認を強制するものではない4」と述べて、こうした否定的態度に反論している。

本論考は、元々、坂元茂樹『国際法で読み解く外交問題』(東信堂、2024年)に表題「韓国国際シンポジウムにおける竹島紛争」として掲載されたものに改訂を加えたものである。

註1

小田滋『海洋の国際法構造』(有信堂、1956年)65-66頁。

註2

Yearbook of the International Law Commission, 1951, vol. I, p.303, para.2 and p.315, para.43.

註3

H. Waldock, “The Anglo-Norwegian Fisheries Case,” The British Yearbook of International Law, Vol. 28(1951), pp.114 and 171.

註4

W.M. Chapman, United States Policy on High Seas Fisheries, 20 Department of State Bulletin (No.493) (16 January 1949), pp.67 and 71. 小田『前掲書』(注1)66頁。

2 李承晩ラインの設定とその問題点

 周知のように、1951年の対日平和条約第21条は、「この条約の第25条(坂元注:連合国の定義)の規定にかかわらず、……朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する」と規定し、その特定条項の一つである第9 条は「日本国は、公海における漁猟の規制又は制限並びに漁業の保存及び発展を規定する二国間及び多数国間の協定を締結するために、希望する連合国とすみやかに交渉を開始するものとする」という漁業条項を置いていた5

 日韓両国の間に正式の国交を開くための第一次日韓会談の交渉が開始されたのは、1952年2月15日であった。ところが、韓国は、同交渉に先立つ1952年1月18日に「海洋主権宣言」を行い、韓国の海岸線から最大限190海里にも及ぶ広大な海域に対して排他的主権の行使を行いうるとする「李承晩ライン」を設定した6。同宣言の第2 項は、「大韓民国政府は、深度のいかんを問わず、韓国領土である韓半島と島嶼の海岸に隣接する海洋に、……国家の主権(national sovereignty)を留保し、行使する7」と宣言した。この宣言の目的について、韓国側は、①李承晩ラインによって囲まれた水域における貴重な海洋資源を保存すること、②漁業資源に関する韓国と日本の将来の軋轢を除去すること、③共産主義の浸透に対する海上の防衛を挙げていた8

 戦後の日本では、朝鮮半島や中国大陸、さらに台湾から引き揚げてきた漁業者が、九州を拠点にして、東経130度以西の東シナ海及び黄海でトロール漁業及び底引き網漁業を行い、戦前の水産量をはるかに上回る実績を挙げていた。韓国側は両国の間に存在するこうした漁獲能力の格差を理由に、朝鮮半島周辺で操業する日本漁民を排除する一方的規制を行おうとしたのである。当然のことながら、日本側は公海自由の原則の立場から強く反発した9。しかし、韓国は1953年12月12日に漁業資源保護法を制定し、この法律に違反して李ラインを侵犯した日本漁船を拿捕する挙に出た。14年に及ぶ日韓漁業問題の交渉の中心的な課題となったのは、拿捕された日本漁船326隻(そのうち沈没・未帰還185隻)、抑留乗組員3,904人(拿捕及び抑留の過程で死亡者8名)に及んだこの李ラインの問題であった。これらの数字は、李承晩ライン設定前の拿捕も含む。

 この李ラインの内部に竹島が取り込まれたことに対し、日本政府は1952年1月28日に、「李大統領の宣言は公海自由の原則及び公海における水産資源の保護開発についての国際協力の原則に反するものであり、日本政府としてはこの宣言に従うことはできない。また韓国は右の宣言で竹島として知られている日本領の小島に対する領土権を主張しているかのように見えるが、日本政府は韓国のかかる僭称又は要求を認めるものではない10」との口上書を送った。

 これに対して、韓国は、「連合国総司令部は1946年1月29日付連合国軍司令部覚書(SCAPIN)第677号により、本小島(竹島)を日本の領有から明白に除外した点、および諸小島がマッカーサー・ラインの線外に置かれていた点よりして、これらの事実は、同島に対する韓国の要求に同意し、これを確認するものであって、何等議論の余地のないものであることを日本政府に想起せしめたい11」と反論した。たしかに、「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する連合国総司令部覚書」と題するSCAPIN 第677号により、日本は鬱陵島、済州島と並んで、竹島に対しても、政治的及び行政的権力の行使を停止するように指令された。また、1946年6月22日のSCAPIN 第1033号により、竹島はいわゆるマッカーサー・ラインの外側に置かれ、日本の船舶及び乗組員は竹島の周辺12海里以内に接近することを禁止された12。こうした経緯もあり、韓国は、米国に対し、マッカーサー・ラインの存続を要望し、また朝鮮半島近海での日本人の漁業を制限する条項を対日平和条約に含めるよう要請したが、米国によって拒否されている13

 塚本孝氏の米国公文書館の資料に基づく緻密な研究によれば、米国国務省による1947年3月と同年8月5日付、1948年1月2日付、1949年10月13日付と同年11月2日付の草案によれば、竹島は日本が放棄すべき島嶼に含まれていた。しかし、この草案に対し、駐日国務長官代理のシーボルド(William J. Sebald)政治顧問が、1949年11月14日、国務省バターワース(W. Walton Butterworth)極東担当国務次官補に電報を送り、「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる。安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない」とのコメントを寄せた。この指摘を受け、国務省は1949年12月29日付草案で、関係条文を修正し、日本が保持する島に竹島を加えたのである。草案第3条(日本の保持する領域)に関して国務省が作成した注釈は、「竹島(リアンクール岩)―日本海中ほぼ日本と朝鮮の等距離にある、2個の無人の島である竹島は、1905年に日本により正式に、朝鮮の抗議を受けることなく領土主張がなされ、島根県隠岐支庁の管轄下に置かれた。同島は、アシカの繁殖地であり、長い間日本の漁師が一定の季節に出漁していた記録がある。西方近距離にあるダジュレ島(注:鬱陵島)とは異なり竹島には朝鮮名がなく、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われない」と記していた。その後、国務省長官顧問に任命されたダレス(John Foster Dulles)によって草案は短くなり、日本が保持する島の列挙はなくなったが、竹島を日本に残す主旨に変更はなかった。この点は、オーストラリア政府による「旧日本領土の処分に関して一層精密な情報を求む」という要請への回答において、米国が、竹島を隠岐列島などとともに、「いずれも古くから日本のものと認められていたもの」としていることからもわかる14

 これに対し、韓国政府は、梁祐燦駐米大使を通じて、対日平和条約草案第2条(a)の「放棄する」という語を、「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する」に修正するよう要求した。しかし、1951年8月10日付のラスク(Dean Rusk)極東国務次官補の韓国大使に宛てた公文では、「合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。……独島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません」と述べて、韓国側の要求を拒否している15

 いうまでもなく、韓国併合前から日本領であった竹島は1943年のカイロ宣言がいう「暴力及び強欲により日本国が略取した他のすべての地域」に当たらないし、前述した経緯から、1951年の対日平和条約がいう、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」(第2条(a)項)という条文にいう放棄した地域に竹島は含まれない。そこで、日本は、先の韓国の反論に対し、「連合国総司令部の1946年1月29日付覚書の措置は、日本政府が竹島に対して、政治上または行政上の権限の行使または行使しようと企図することを停止するよう命ぜられたるに止まり、同島の帰属とは無関係であること、同様にマッカーサー・ラインも国家統治権、国際的境界又は漁業権の最終的決定に関する連合国の政策を表明するものではない16」旨の再反論を行った。つまり、SCAPIN第677号は、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(6項)と断っているし、マッカーサー・ラインを定めたSCAPIN第1033号も「この認可は、関係の地域又はその他如何なる地域に関しても、日本国家の管轄権、国際境界線又は漁業権についての最終決定に関する連合国側政策の表明ではない」(5項)と述べている17。したがって、連合国が韓国の要求に同意したという性質のものではないとの再反論を行ったのである。

註5

川上健三『戦後の国際漁業制度』(大日本水産会、1972年)237頁。ちなみに、1952年に発効した「北太平洋の公海漁業に関する国際条約」(通称、日米加漁業条約)が、平和条約第9条に基づいて締結された国際漁業条約の第1号である。藤原弘毅「各国との漁業協定の概要」『時の法令』第522号38頁。

註6

韓国外交部が李ラインの設定を急いだ背景については、藤井賢二「『平和線』の理論の検討」『朝鮮史研究会会報』第150 号(2003年)4-6頁に詳しい。

註7

英文訳は以下の通りである。“ 2 The Government of the Republic of Korea holds and exercises the national sovereignty over the seas adjacent to the coasts of the peninsular and islands of the national territory, no matter what their depths may be, throughout the extension,” 李ラインの内容の詳しい内容については、広部和也・田中忠「資料 日韓会談一四年の軌跡」『法律時報』第37巻10号45頁参照。

註8

李ラインの詳しい分析については、参議院法制局『李承晩ラインと朝鮮防衛水域』参照。

註9

山内康英『交渉の本質-海洋レジームの転換と日本外交』(東京大学出版会、1995年)46頁。

註10

国際法事例研究会『領土』(慶応通信、1990年)(担当:横川新)173頁。

註11

『同上』174頁。

註12

1949年9月19日のSCAPIN 第2046号によって、12 海里は3海里に変更された。詳しくは、『同上』172頁参照。

註13

藤井賢二「韓国の海洋認識―李承晩ライン問題を中心に―」『韓国研究センター年報』11号(2011年)55頁。

註14

塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』第518号(1994年)39-45頁。

註15

「同上」48-50頁。

註16

国際法事例研究会『前掲書』(注10)174頁。

註17

塚本「前掲論文」(注14)33頁。

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