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時代別テーマ解説

時代区分 V 沖縄返還前後の動き(1972年前後)

(1) 尖閣諸島の不法入域対策

1. 台湾人の不法入域対策と警告板の設置

 1960年代に入ると、東シナ海の海底資源に対する関心が国際的に高まり始めた。1967年(昭和42年)11月、日米首脳会談において沖縄返還交渉の早期進展に両国が合意した一方、1968年になると東シナ海大陸棚縁辺に散在する尖閣諸島にも世論の注目が集まった。同時に、尖閣諸島への台湾人の不法入域が問題となり、USCAR、琉球政府は1968年(昭和43年)8月12日から13日にかけて合同調査を実施するなど対策を行った。

 1968年9月、USCARは、不法入域者への実効的な対策として、琉球政府に対し、尖閣諸島に立入る為には入域許可が必要なことを知らせる警告板の設置を提案した。警告板は、琉球政府出入管理庁により、1970年(昭和45年)7月、尖閣諸島5島(魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島)に設置された。

 資料調査では、不法入域対策関連資料の調査を行った結果、警告板設置の設置状況を収めた写真集やNo.66、出入管理庁職員が警告板設置後に提出した復命書No.67をはじめ、設置作業の様子を綴った八重山土木事務所職員の回想録と日誌等No.68を確認した。

2. 行政標柱設置と警告板設置

 1969年(昭和44年)5月、石垣市は、尖閣諸島が同市の行政区域であることを明示する標柱を尖閣諸島各島5島に設置し、あわせて魚釣島に、太平洋戦争末期(1945年)、同島に遭難、死亡した台湾疎開尖閣諸島遭難戦没者の慰霊碑を建立した。

 資料調査では、石垣市の行政報告の中に、行政標柱の設置、慰霊碑の建立について報告があることを確認したNo.69

USCARと協議の上で琉球政府が取締を行い、日本本土からも調査に入ったこの頃、尖閣諸島をめぐる情勢には変化が生じていた。その変化は、沖縄返還協定(1971年6月17日署名)に向けて顕著となり、それまで、尖閣諸島の領有を主張したことのなかった中国、台湾が、突如として領有権を主張しはじめた。

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