尖閣諸島に関する資料の委託調査報告書

平成28年度報告書に掲載された資料例

  1. 向姓具志川家家譜 十二世諱鴻基
  2. 文書[久場島への寄港に付き古賀辰四郎より願の件
    明治32年1月19日付大阪商船株式会社長宛依頼 奈良原繁(沖縄県知事)→中橋徳五郎] [1899年(明治32年)1月19日]
  3. 文書[久場島への寄港に付き古賀辰四郎より願の件
    明治32年1月 久場島諸島へ汽船寄港之義ニ付願 古賀辰四郎→知事(奈良原繁) [1899年(明治32年)1月]
  4. 地図(沖縄県管内略図及里程)
  5. 県令第49号 [1902年(明治35年)12月3日]
  6. 立法院会議録第5回議会(臨時)[決議案第15号、第三清徳丸:1955/3/5(大湾喜三郎議員)、活版] [1955年(昭和30年)3月5日]
  7. 嘆願書[1955年(昭和30年)5月] 1955年(昭和30年)5月
  8. 立法院会議録第8回議会[第三清徳丸の人的、物的損害に対する賠償方について 1955/11/1琉立調第1098号] 1957年(昭和32年)2月6日
  9. [尖閣列島][写真アルバム] 1963年(昭和38年)3月
  10. 「沖縄問題等懇談会専門委員高岡大輔氏の沖縄調査日程」 1968年(昭和43年)7月1日
  11. [高岡大輔の尖閣諸島調査に関する古賀善次の回答(同意)] [1968年(昭和43年)7月2日]
  12. [尖閣列島調査のための職員の派遣について(琉球大学)] [1968年(昭和43年)7月3日]
  13. [尖閣列島総合学術共同調査の実施について] 1971年(昭和46年)3月26日
  14. 沖縄県総図 1972年(昭和47年)5月15日
  15. [琉球米軍による永久危険区域の指定] 1948年(昭和23年)4月9日
  16. [作戦:射撃・爆撃演習場(第1航空師団規定55-8の更新)] [1948年(昭和23年)1月15日]
  17. 大明一統志 1461年陰暦4月進呈
  18. (康煕)大清一統志 1744年(乾隆9年)

1. 向姓具志川家家譜 十二世諱鴻基

所蔵機関:沖縄県立図書館

 沖縄においては、尖閣諸島は古くから琉球—福州間航路上の標識島として利用されてきたが、当時の資料に尖閣諸島に関する記述のあるものは決して多くはない。尖閣諸島は、航海を無事に終えた場合は、あえて書き記されることのない洋上の無人島である。系図家譜の場合、尖閣諸島周辺海域での暴風雨等の悪天候による遭難、漂流等、不測の事態に巻き込まれた際に、詳細に記載される事がある。本資料も同様の性質の記録である。

向姓具志川家家譜 十二世諱鴻基

2. 文書[久場島への寄港に付き古賀辰四郎より願の件
明治32年1月19日付大阪商船株式会社長宛依頼 奈良原繁(沖縄県知事)→中橋徳五郎] [1899年(明治32年)1月19日]

所蔵機関:那覇市歴史博物館

 本資料は、沖縄県知事奈良原繁より大阪商船株式会社長あての依頼文書である。1896年8月に沖縄県は、古賀辰四郎に尖閣諸島開拓の許可を与えたが、その後、古賀の開拓は交通不便の為に難航した。その打開策として、古賀は、沖縄県知事に尖閣諸島(久場島、魚釣島)への寄港について、当時本土—台湾間で船舶を運航していた大阪商船株式会社へ働きかけてもらうよう依頼したところ、県知事による働きかけが実現したものである。

文書文書[久場島への寄港に付き古賀辰四郎より願の件 明治32年1月19日付大阪商船株式会社長宛依頼 奈良原繁(沖縄県知事)→中橋徳五郎] [1899年(明治32年)1月19日]

3. 文書[久場島への寄港に付き古賀辰四郎より願の件
明治32年1月久場島諸島へ汽船寄港之義ニ付願 古賀辰四郎→知事(奈良原繁)] [1899年(明治32年)1月]

所蔵機関:那覇市歴史博物館

 本資料は古賀辰四郎より沖縄県知事宛の請願書の写しである。1896年(明治29年)8月15日をもって県より尖閣諸島開拓の許可を受け、古賀は同諸島に農夫及び漁夫を派遣した。1898年(明治31年)5月には開拓を拡張するため更なる人員を派遣した(監督者尾瀧延太郎:古賀の甥。明治31年7月17日付琉球新報記事「尖閣群島事情」参照)。
 これにより同諸島の開発が進み、海産物の採取や開墾地での収穫量は順調に増加していった。しかし、当時、産物の運搬に用いていたのは、漁業用の小舟であり、輸送量や運搬に要する日数等の制約が大きかった。古賀は、同諸島における輸送・交通手段の強化・安定を求め、大阪商船が往復年3〜4回の蒸気船の寄港を実施してくれるように、県知事に対して斡旋を請願した。

文書[久場島への寄港に付き古賀辰四郎より願の件 明治32年1月 久場島諸島へ汽船寄港之義ニ付願 古賀辰四郎→知事(奈良原繁) [1899年(明治32年)1月]

4. 地図(沖縄県管内略図及里程)

所蔵機関:那覇市歴史博物館

 沖縄県所轄の管内略図及び各地区間の距離略図。尖閣諸島については、「久米赤島」、「久場島」、「魚釣島」の三島が記載されている。これらの呼称は沖縄県が作成した他の資料にも見られることから、1885年の尖閣諸島調査以降、沖縄県で一貫して使用されていたことがうかがえる。

地図(沖縄県管内略図及里程)

5. 県令第49号 [1902年(明治35年)12月3日]

所蔵機関:那覇市歴史博物館

 1902年末に、魚釣島、久場島、その他附近の島嶼を沖縄県石垣市字登野城の行政区域として定めたもの。これにより、現在まで続く地方行政上の位置づけが確定したものと考えられる。これは沖縄県制度改革に取り組んだ奈良原繁県知事(当時)の大きな功績の一つといえる。

県令第49号 [1902年(明治35年)12月3日]

6. 立法院会議録第5回議会(臨時)[決議案第15号、第三清徳丸:1955/3/5(大湾喜三郎議員)、活版] [1955年(昭和30年)3月5日]

所蔵機関:沖縄県公文書館

 第三清徳丸襲撃事件の一報は沖縄の地元新聞で大きく取り上げられた。我が国の領海内で操業する琉球の漁船が外国船の襲撃を受けた事件に対し、地元紙は社説で同事件の真相究明を求めた。琉球政府立法院議会においても、真相を明らかにするため、国連他国際機関への協力を求める決議が採択された。

立法院会議録第5回議会(臨時)[決議案第15号、第三清徳丸:1955/3/5(大湾喜三郎議員)、活版] [1955年(昭和30年)3月5日]

7. 嘆願書[1955年(昭和30年)5月] 1955年(昭和30年)5月

所蔵機関:沖縄県公文書館

 第三清徳丸襲撃事件の被害者家族らによる琉球政府立法院への嘆願書(1955年(昭和30年)5月26日受付)。事件からおよそ3か月が経過するなか、行方不明者の捜索救助や行方不明者の家族への生活救援等を訴えている。

嘆願書[1955年5月] 1955年(昭和30年)5月

8. 立法院会議録第8回議会[第三清徳丸の人的、物的損害に対する賠償方について 1955/11/1琉立調第1098号] 1957年(昭和32年)2月6日

所蔵機関:沖縄県議会図書室

 第三清徳丸事件の一報の後、生存者が沖縄本島に帰還してようやく同事件の全貌が明らかとなった。被害状況は、乗組員9名の内、3名が行方不明というものであった。(なお、生存者らの供述によると、2名が射殺されたのを目撃したとのことだが、その後の捜索で遺体は発見されず。)被害者遺族らは琉球政府立法院議会に対し、蒙った損害について救済を求める請願をした。

立法院会議録第8回議会[第三清徳丸の人的、物的損害に対する賠償方について 1955/11/1琉立調第1098号] 1957年(昭和32年)2月6日

9. [尖閣列島][写真アルバム] 1963年(昭和38年)3月

所蔵機関:個人蔵(那覇市歴史博物館に複写物所蔵)

 善次は、尖閣諸島が中国や台湾が根拠のない主張を行うようになる以前から、訪ねてきた人々に父辰四郎や尖閣諸島に関して、資料や写真の提示をしていたようである。本アルバム製作者の大仲浩夫は沖縄県石垣島出身で同県南大東島の測候所に勤務していた。おそらくは南大東に滞在中、島の歴史について同島在住の郷土史家西浜良修が教示したものと考えられる。善次の人柄がうかがえると共に、戦後においても辰四郎や尖閣諸島に関する資料が残っていたことを確信させる資料である。

[尖閣列島][写真アルバム] 1963年(昭和38年)3月

10. 「沖縄問題等懇談会専門委員高岡大輔氏の沖縄調査日程」 1968年(昭和43年)7月1日

所蔵機関:沖縄県公文書館

 琉球政府が直前まで調整した、高岡大輔の沖縄調査日程案。日程案では7月7日、8日が尖閣諸島調査に当てられている(調査後の報告書によれば、実際の調査は7月8日、9日、10日の3日間)。

「沖縄問題等懇談会専門委員高岡大輔氏の沖縄調査日程」 1968年(昭和43年)7月1日

11. [高岡大輔の尖閣諸島調査に関する古賀善次の回答(同意)] [1968年(昭和43年)7月2日]

所蔵機関:沖縄県公文書館

 沖縄問題等懇談会(座長大浜信泉)専門委員高岡大輔氏による尖閣列島調査(水深及び海底地質等調査)については、琉球政府としても全面的に協力することになり、水産研究所の図南丸(となんまる)を借用し、琉球大学教授ならびに政府気象専門家などを同行させることとなった。これに関し、尖閣諸島を所有する古賀氏に宛てた同意願に対する古賀善次の回答(同意)。

[高岡大輔の尖閣諸島調査に関する古賀善次の回答(同意)] [1968年(昭和43年)7月2日]

12. [尖閣列島調査のための職員の派遣について(琉球大学)] [1968年(昭和43年)7月3日]

所蔵機関:沖縄県公文書館

 沖縄問題等懇談会専門委員高岡大輔氏が沖縄事情調査のため、沖縄を訪問したが、高岡氏はこの滞在中、尖閣列島の水深ならびに海底地質調査等を実施することとしており、その際における琉球大学職員の参加助勢について、協力を求めていた。これに関し、琉球政府が琉球大学側に、高岡氏の調査をより有意義あらしめるために同大学職員の参加を依頼したのに対して、4名の専門家を派遣するという琉球大学学長の回答書。

[尖閣列島調査のための職員の派遣について(琉球大学)] [1968年(昭和43年)7月3日]

13. [尖閣列島総合学術共同調査の実施について] 1971年(昭和46年)3月26日

所蔵機関:沖縄県公文書館

 琉球大学尖閣列島学術調査に際し、調査計画と図南丸の運航計画予定図。

[尖閣列島総合学術共同調査の実施について] 1971年(昭和46年)3月26日

14. 沖縄県総図 1972年(昭和47年)5月15日

所蔵機関:沖縄県公文書館

 本資料は琉球列島米国民政府(USCAR)で渉外局長を務めた故エドワード・フライマスの所蔵資料の一つ(現在は沖縄県公文書館に寄贈されている)。1972年(昭和47年)5月15日に米国から我が国に返還された沖縄県の島々を記した地図である。尖閣諸島の部分に魚釣島・北小島・南小島・久場島・大正島・飛瀬・沖の北岩・沖の南岩の5島嶼3岩礁が記されている。

沖縄県総図 1972年(昭和47年)5月15日

15. [琉球米軍による永久危険区域の指定] 1948年(昭和23年)4月9日

所蔵機関:沖縄県公文書館

 1948年(昭和23年)4月9日付、琉球米軍より軍政府副長官を通じて沖縄(群島)知事宛に通達された告知。コビ礁(尖閣諸島の久場島)以下5つの区域を第一航空師団が使用する永久危険区域とし、このことを知事以下全関係者に告知するよう記している。なお、収録誌には同日付同内容の英文コピーも収録されている。この資料は沖縄群島知事宛であるが、同年代の別資料で同様な内容が「臨時北部南西諸島公報」(奄美群島公報紙)の5月25日公報、「公報新宮古」(宮古群島公報紙)5月27日付、「八重山タイムス」(八重山群島紙)11月1日付などに記されている。

[琉球米軍による永久危険区域の指定] 1948年(昭和23年)4月9日

16. [作戦:射撃・爆撃演習場(第1航空師団規定55-8の更新)] [1948年(昭和23年)1月15日]

所蔵機関:沖縄県公文書館

 本資料は、1946年(昭和21年)10月15日付の第一航空師団司令部の規定「55-8」を更新するとした1948年(昭和23年)1月15日付文書。
 永久危険区域として「コビ礁」(尖閣諸島久場島)など5か所の区域を、暫定危険区域としてイエシマ(伊江島)など4か所の区域を指定することなどを規定する。

[作戦:射撃・爆撃演習場(第1航空師団規定55-8の更新)] [1948年(昭和23年)1月15日]

17. 大明一統志 1461年陰暦4月進呈

所蔵機関:東京大学東洋文化研究所

 明国英宗皇帝の勅命により編纂された総合地誌、全九十巻。  第七十四巻から第七十八巻までは福建省の巻である。最初に福建全土の沿革を略述し、継いで各論で福建省の全八府を詳述しており、各府の領域を東西南北各境界線までの里数で示している。里数を直線で計測する技術は無かったため、道程で計測された。当時の一里は、直線距離四分の一キロメートル前後に相当する。また、「府」は、我が国の大阪府・京都府・沖縄県などと同じく地方行政単位を指す。
 八府の内、この時代まで琉球への出航地は泉州府であった。泉州の領域は東に海岸までと明記されているため、尖閣諸島は明確に泉州の領域線外に位置することがわかる。
 また八府の首府福州は尖閣諸島の正西方向に位置し、後に琉球への出航地となるが、同様に領域は東に海岸までと明記されている。そのため、尖閣諸島は明確に福州の領域線外に位置することがわかる。
 里数は地誌の通例として「疆域」巻(別名封域・封隅・疆界など)に記載され、疆・隅・界は境界線を指す。『大明一統志』は疆域巻を立てないが、同じく里数が境界線を示している。
 また、海岸を界と明記する例も多い。例えば1614年、福州府下の『羅源県志』は巻首の「総図」で東北の境界線を「大海の界」と記載する。
 福建だけでなく基本的に明国の領土は大陸海岸までで尽きる。ただ広東省の瓊州府(海南島)だけは明の領内地として第八十二巻で記述される。そのため、単に記述の体例として全島嶼が除外されているわけではないことが分かる。なお、清国に至って台湾島西岸を侵奪したため、福建省台湾府が官製地誌に加えられるが、明国ではまだ台湾島を福建省に含んでいない。 

大明一統志 1461年陰暦4月進呈

18. (康煕)大清一統志 1744年(乾隆9年)

所蔵機関:国立公文書館

 清国で編纂された最初の総合地誌。第二百六十巻から第二百七十三巻までが福建省の巻である。省内各巻で清国福建省の領域の東限、福州府の領域の東限、台湾府の領域の東限と北限とをそれぞれ明示している。福州府は琉球への出航地であり、台湾府は距離上で琉球から近い。尖閣諸島はこれら領土線から遥かに外側に位置する。
 また第二百六十巻の巻前に附する「福建全図」の東端は大陸海岸及び台湾の西側平野までで尽きる。「福州府図」も海岸までで尽き、附帯的に馬祖列島西部の竿塘など、大陸沿岸島嶼のみ記載する。「台湾府図」は北端に鷄籠城界、東端に大脚山界と記載し、国境線を明示する。三図ともに巻内の記述文と一致する。したがって、尖閣諸島が明確に清の境界外に位置することがわかる。
 これらの内、台湾部分は西暦17世紀末の『台湾府志』から承け継がれた二次的記述である。『台湾府志』記載の国境線の外に尖閣が位置することについては、昭和40 年代から奥原敏雄氏が論じており、既に定説となっている。 また『大清一統志』は後に第二版、第三版も製作されたが、福建省の領域はほぼ初版と変わらない。

(康煕)大清一統志 1744年(乾隆9年)
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