北方領土・竹島・尖閣諸島
(相手国・地域の主張などのQ&A)

竹島

韓国の主張を見てみよう

「于山島」は竹島なのか?

韓国が竹島だとする古文献の「于山島」は、鬱陵島か又は存在しない島です。韓国は、文脈や他の文献との関係は無視し、後世の文書の記述を古い文献に当てはめるなど、都合の良いように解釈しています。

韓国の主張

(『韓国の美しい島独島』p.5,6,14,15(韓国外交部)に基づく)

鬱陵島では、天気の良い日には肉眼で竹島を眺めることができる。こうした地理的な特性から、竹島は歴史的に鬱陵島の一部として認識されてきた。

こうした事実は、韓国の古文献でも確認できる。例えば、朝鮮王朝初期の官撰書の『世宗実録』「地理志」(1454年)には、「于山 (竹島)・武陵(鬱陵島)… 二島は互いに遠く離れておらず、天気の良い日には眺めることができる」と記されている。

特に、鬱陵島の周辺には多くの付属島嶼 があるが、天気の良い日に肉眼で見ることができるのは竹島だけである。

韓国の主張の問題点

韓国の古文献の于山島は竹島ではありません。

韓国の主張は、于山島=竹島との解釈を前提にしています。鬱陵島と竹島の位置関係や鬱陵島からの竹島の見え方についての現代の知識をもって古文献を解釈するもので適切でありません。

『世宗実録』「地理志」の「于山武陵」に関する部分の続きには、太宗の時、「その島」に逃げ込むものが多く、金麟雨を安撫使として派遣したとあります。太宗の時の記録である『太宗実録』では、金麟雨がこの時派遣されたのは于山島で、戻った際産物の大竹などを 献上、島には約15戸86人が住んでいたと報告しています。これだけの住民が住み、大竹 が生える島は竹島ではありえません(図3)。

官撰書『新増東国輿地勝覧』(資料②)には、于山島と鬱陵島について、「風のあるよく 晴れた日には峰頭の樹木や山のふもとの渚がはっきり見える、順風であれば二日で到達 できる。于山と鬱陵は本来一つの島であるとも説かれる」とあります。朝鮮本土からの鬱陵 島の見え方の話であり、樹木のない竹島の話ではありえません。

【図1】『新増東国輿地勝覧』「八道総図」(1531年)
『新増東国輿地勝覧』影印本(東国文化社)より
所蔵:島根県竹島資料室

【図2】「八道総図」(17世紀)
『朝鮮古地図帳』より
所蔵:個人蔵
『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」(図1)など15世紀~17世紀の朝鮮の古地図の多くで「于山」は鬱陵島より西に描かれており、存在しない島です。図2で紹介する「八道総図」では、「于山」が島を表す丸ではなく四角で囲まれており、地方名として表現されています。

【図3】「太宗実録」
巻33の太宗17年2月条(1417年)

赤線内現代語訳(仮訳)
「按撫使金鱗雨が于山島から還り、産物である大竹、水牛皮、生苧、綿子、検樸木等を献上し、住民3名を連れてきた、その島の人口はおよそ15戸で男女あわせて86人。」

韓国の主張

韓国が竹島を韓国の領土として認識・統治してきた歴史的事実は、韓国の官撰文献に記録されている。

朝鮮初期の官撰書『世宗実録』「地理志」(1454 年)には、鬱陵島(武陵)と竹島(于山)が江原道蔚珍県に属する二つの島であると記されている。また、この二つの島が6世紀初頭(512年)に新羅に服属した于山国の領土と記されていることから、竹島に対する統治の歴史は新羅時代にまで遡る。

韓国の主張の問題点

韓国の古文献の記述は、新羅の時代に于山国が欝陵島にあったということで、新羅の統治が竹島に及んでいたという話ではありません。

 『世宗実録』「地理志」には、「新羅の時于山国と称した」という一文がありますが、これは、朝鮮半島の三国時代(新羅、高句麗、百済)などを対象する歴史書『三國史記』(1145 年)に由来します。同書に「于山国は溟州の東の海島に在る、別名欝陵島、その地は百里四方」とあります。同記事に竹島は出てきません。すなわち、この記事は、新羅の時代に于山国が欝陵島にあったということであって、新羅の統治が竹島に及んでいたという話ではありません。

韓国が竹島だと主張する「于山島」は、鬱陵島か存在しない島なんだね。

韓国の主張を見てみよう

大韓帝国は1900年に勅令により竹島を管轄し領土主権を行使していたのか?

韓国は、1900年の勅令の「石島」は竹島であり、同勅令で竹島を欝島郡の管轄下に入れたと主張しています。しかし、「石島」が竹島である明確な証拠は一切示されておらず、むしろ当時の文書は、「石島」は竹島ではないことを示しています。

韓国の主張

(出典:『韓国の美しい島独島』p.9,24, 26-27(韓国外交部))

大韓帝国は、勅令第41号(1900年)に よって鬱島郡を設置し「鬱陵全島と竹島・ 石島」をその管轄区域とすることを定めた。 「石島」とは現代の竹島のことを指し、この 勅令により鬱島郡守が竹島を管轄するよう になった。

※竹嶼と呼ばれる鬱陵島付近の島。

韓国の主張の問題点

石島が竹島ではないことは明確です。

韓国政府は1900年の勅令第41号に記載のある「石島」は竹島であると主張していますが、「石島」が竹島であるという根拠は示されていません。

むしろ、勅令第41号の制定に際し提出された「欝陵島を欝島と改称し島監を郡守と改正することに関する請議書」では、該島地方は縦可八十里(※約32km)で横為五十里(※約20km)」としています。鬱陵島から約90km離れた竹島はこの範囲外にあり、石島が竹島ではないことが明確です(資料③及び資料④参照)。

韓国の主張

(出典:『韓国の美しい島独島』p.9,24, 26-27(韓国外交部))

1906年、大韓帝国の鬱島郡守は、鬱島郡を管轄する江原道の観察使に対し、島根県の官吏一行が鬱島郡庁を訪問し、竹島を日本の領土に編入したと述べた、と報告した。この報告には、「本郡所属独島」という文言があり、最終的に中央政府に伝達された。同報告書により、鬱島郡守が、勅令第41号に基づき、竹島を管轄していたことがわかる。

韓国の主張の問題点

なぜ勅令第41号に基づいて「石島」と記さず唐突に「独島」と記したのか説明がなく、また、大韓帝国政府が竹島を実効的に占有した事例がありません。

韓国側の主張には、鬱島郡守の報告に「本郡所属独島」という文言があるので、勅令第41号に基づき、竹島を管轄していたことがわかるとあります。しかし、鬱島郡守が勅令第41号に基づき竹島を管轄していたなら、郡守がなぜ同勅令に従って同報告に「石島」と記さなかったのか説明が必要です。しかし、その説明はありません。

また、鬱島郡守が竹島を管轄していたとして領有権を主張するためには、実際に竹島で行政権の行使など実効的な占有を行ったことを示す必要がありますが、韓国はそのような事例を示していません。

韓国の主張

(出典:『韓国の美しい島独島』p.9,24, 26-27(韓国外交部))

大韓帝国政府は、竹島が日本の領土になったとの島根県官吏一行の説明には「全く根拠がなく、島の状況と日本人がどのように行動したかを再び調査報告する事」とする指令第3号を発出した。同指令をもって、竹島が日本領になったという日本の主張は否認された。

韓国の主張の問題点

日本政府に対する照会も抗議も行われていません。

大韓帝国は、指令第3号により、竹島の状況などについて再調査を命じたとしますが、調査結果は示されておらず、また日本政府に対し照会も抗議も行われていません。日本政府に対し何の意思表示を行っていない政府内部での調査命令(指令第3号)の存在をもって「竹島が日本領になったという日本の主張は否認された」とすることはできません(資料⑤参照)。

韓国は、勅令第41号の「石島」が現代の竹島である前提で竹島の領有権を主張しているけど、その証明はまったくできていないんだね。

韓国の主張を見てみよう

韓国の古文献に「于山は日本の竹島である」と明確に書かれているのか?

韓国の主張

(『韓国の美しい島独島』pp.4,5,14,15(韓国外交部)に基づく)

竹島に関する記録は、『新増東国輿地勝覧』(1531年)、『東国文献備考』(1770年)、『萬機要覧』(1808年)、『増補文献備考』(1908年)など他の官撰文献でも一貫して書き継がれています。

『東国文献備考』「輿地考」(1770年)などには、「鬱陵(鬱陵島)と于山(竹島)はみな于山国の地であり、于山(竹島)は日本の所謂松島※なり」と記述されており、于山島が竹島であり、韓国領であることをより明確にしています。

※竹島の江戸時代の名称

韓国の主張の問題点

韓国の古文献の記述の元である安龍福の供述は、当時、朝鮮政府自身に否定されています。

『東国文献備考』「 輿地考」など18世紀以降の文献に見える「于山は日本のいわゆる松島である」という記述は、『 粛宗実録』(1728年) に記録された17世紀末の安龍福の供述に由来するものです。これをもってそれ以前の『世宗実録』「地理志」、『新増東国輿地勝覧』にある于山(島)が現在の竹島(江戸時代の日本名松島)であることの根拠とすることはできません。

さらに、安龍福の供述は、当時、朝鮮政府自身によって否定されています(『竹島紀事』 資料①参照)。

朝鮮政府自身が安龍福の供述の価値を否定している以上、安の供述に基づく後世の文書の記述を、領有権主張の根拠とすることはできません。

【資料①】朝鮮国禮曹参議 李善溥 発
日本国対馬州刑部大輔拾遺 宗義真 宛書簡(抜粋)

(1698(元禄11)年3月)

所蔵:国立公文書館

赤線内現代語訳 (仮訳)

昨年漂氓の件、濱海の人はたいがい舟楫を以て業とします。帆に強風を受ければたちまち漂流に及びやすく、海を越えて貴国に転じ入るに至ります。 《中略》 その呈書のごとき、誠に妄作の罪があります。それ故すでに流刑に処し、懲戢の地へ送りました。

今の韓国は安龍福を英雄視しているけど、当時の朝鮮政府は安龍福の供述はでたらめだと日本に言っていたんだね。

【資料②】新増東国輿地勝覧

赤線内現代語訳 (仮訳)

于山島と欝陵島:(欝陵は)時に武陵、あるいは羽陵とも呼ばれる。(この)二つの島は(蔚珍)県の真東の海上にある。三つの峯が空に届こうとするくらいに高くそびえており、南側の峯はやや低い。天候が良いときは山頂の樹木や、山の尾根から海岸にかけてがくっきりと見える。順風ならば二日で到達できる。一説には于山と欝陵はそもそも同じ島のことであるといい、(島は)100里平方からなる。

竹島に樹木はないのに、韓国は、古い文献のうち自らの主張に都合の悪い部分は無視しているんだね。

【資料③】「欝陵島を欝島と改称し島監を郡守と改正することに関する請議書」 (1900年)

所蔵:ソウル大学奎章閣

この請議書の作成にあたって参照された調査の記録が記載されている禹用鼎の『鬱島記』(1900年)では、鬱陵島の範囲を「全島長可為七十里(約28km) 広可為四十里(約16km)」と記されています。一方、この請議書では、赤線内のように「該(島)地方は縦可八十里(約32km)で横為五十里(約20km)」としています。鬱陵島から約90km離れた竹島はこの範囲外にあり、石島が竹島ではないことが明確にわかります。

※韓国側の記録で「島」が入るものと入らないものがあります。

【資料④】韓国外務部『獨島問題概論』(部分)(1955年)

日本貿易振興機構アジア経済研究所図書館所蔵

赤枠部分の訳

(大韓帝国が鬱陵島開拓を進め、郡に昇格させて地方行政単位に編入した等の説明に続いて(1900年前後)、)独島は記録と実際知識で既によく知られていて、鬱陵島に空島政策がとられていた時も鬱陵島の一属嶼として往来がなくならなかったところであることは前述したとおりなので、独島をわざわざ鬱陵島の行政組織に編入したと宣言する必要もなかった。また今更のように公的記録を残す理由もなかった。…(1905年の島根県編入)以前に鬱陵島の行政区画に編入されたことがないと言っても、独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったことは否認できない。

韓国外務部は、1955年、竹島について韓国外交官により統一的な説明が行われることを確保するために『獨島問題概論』という資料を作成しています。同資料では、竹島が「鬱陵島の行政区画に編入されたことが明示された公的記録が無い」ことを率直に認め、竹島は、「記録と実際知識で良く知られて」いたので、「わざわざ欝陵島の行政組織に編入したと宣言する必要」はなく「鬱陵島の郡守の管轄下にあったことは否認できない」と苦しい説明をしていました。

ところが、1960年代後半に勅令第41号が「発見」されると、その後韓国政府は勅令第41号の「石島」が竹島であると主張し始めました。韓国の学界では全羅道地方の方言がその根拠とされますが、韓国政府のパンフレットではなぜ石島が竹島なのか根拠を一切述べていません。

1955年の頃、韓国は、竹島を編入した公的記録がないと認めていたんだね。

【資料⑤】「日本海軍望楼跡地を巡る統監府への照会」(1905年)

所蔵:ソウル大学奎章閣

大韓帝国政府は1905年11月の第二次日韓協約(保護条約)によって外交権がはく奪された状態であったため日本政府に抗議も照会もできなかったという主張も韓国内にはあります。しかし、上の写真の資料の案件(日本人の韓国内の土地不法売買の疑い。1905年)のように、大韓帝国政府は、当時、種々の案件について日本側に照会を行っていることが記録されています。韓国政府は日本側に対して抗議や照会できたにもかかわらず、何の意思表示も行わなかったのです。

韓国の主張を見てみよう

第二次大戦後、竹島は韓国の下に戻ったのか?①

韓国は、大戦後の連合国総司令部の覚書により、竹島は韓国の下に戻ったと主張していますが、同覚書の重要な部分を無視しており、その主張は成り立ちません。

韓国の主張

(『韓国の美しい島独島』p.4,5,14,15 (韓国外交部)に基づく)

1943年12月に発表されたカイロ宣言は、「日本は暴力と貪欲によって奪い取ったすべての地域から追放される」と明記している。1945年7月に発表されたポツダム宣言もカイロ宣言の履行を規定している。

韓国の主張の問題点

竹島はカイロ宣言にいう「暴力と貪欲によって奪い取った」領土には該当しません。

日本は、遅くとも17世紀半ばには、竹島に関する領有権を確立し、1905年1月、日本は閣議決定により竹島を島根県に編入し、領有意思を再確認し、その後も平穏かつ継続的に統治してきました。

韓国が竹島を領有したことがないことは、左の二つの「韓国の主張を見てみよう」のパネルのとおりです。したがって、竹島は、カイロ宣言にいう「暴力と貪欲によって奪い取った」領土には該当しません。

なお、そもそも、戦後の領土の処理は、最終的には平和条約を始めとする国際約束に基づいて行われます。第二次世界大戦の場合、同大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持ち得るものではありません。サンフランシスコ平和条約では、竹島が我が国の領土であることが肯定されています。

韓国の主張

(『韓国の美しい島独島』p.4,5,14,15 (韓国外交部)に基づく)

また、連合国最高司令官総司令部は、1946 年1月の連合国最高司令官覚書(SCAPIN)第677号及び1946年6月の連合国最高司令官覚書(SCAPIN)第1033号を通じ、竹島を日本の統治・行政範囲から切り離した。

韓国の主張の問題点

韓国政府は、両覚書の「領土帰属の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」という規定を無視しています。

韓国政府は、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第677号(図4)及び同第1033号(図5)において竹島は日本の領域から除外されていると主張しています。しかし、いずれの指令においても、領土帰属の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない旨が明示的に規定されており、韓国側の主張は全く成り立ちません。

戦後、我が国領土は、サンフランシスコ平和条約で法的に確定されました。したがって、同条約が発効する以前に連合国総司令部が竹島をどう扱っていたのかによって竹島の領有権が影響を受けないことは、事実に照らしても、国際法上も明らかです。

【図4】若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する件(SCAPIN-677)

所蔵:米国国立公文書館

赤点線内の訳

「1.日本国外のいかなる地域においても、日本帝国政府が政治上または行政上の権力を行使すること及び行使しようと企てることを...(略)...停止するよう指令する。」

「3.この指令において、日本とは、日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)及び約一千の隣接諸小島を含むものと規定される。右隣接諸小島は、対馬及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口ノ島を除く)を含み、また次の諸島を含まない。(a) 鬱陵島、竹島、済州島(略)」

「6.この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない。」

※ポツダム宣言第8項 「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また、日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等が決定する諸小島に局限せらるべし。」

【図5】日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する件(SCAPIN-1033)

所蔵:米国国立公文書館

赤点線内の訳

「3.(b)日本の船舶及び船員は北緯37度15分 東経131度53分にある竹島から12マイル以内に近づいてはならず、又この島との一切の接触は許されない。」

「5. この許可は、当該区域又はその他の如何なる区域に関しても国家統治権、国境線又は漁業権についての最終決定に関する連合国の政策の表明ではない。」

日本政府は、韓国がSCAPIN677とSCAPIN1033の重要な規定を無視していることを指摘してきているけど、その指摘も無視してきているんだよ。

韓国の主張を見てみよう

第二次大戦後、竹島は韓国の下に戻ったのか?②

サンフランシスコ平和条約の交渉過程を見ると、竹島は日本に帰属するという認識をもって作成されたことは明らかです。

韓国の主張

(出典:『韓国の美しい島独島』p.9,24, 26-27(韓国外交部))

1951年のサンフランシスコ平和条約は、第2条(a)で「日本は韓国の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む韓国に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定している。

同条項は韓国の約3,000の島嶼のうち、済州島、巨文島及び鬱陵島を例示的に並べているだけで、同条項に竹島が直接明示されていないからといって、竹島が日本から切り離される韓国の領土に含まれていないことを意味するわけではない。

カイロ宣言などを踏まえると、同条約によって日本から切り離される韓国の領土には当然竹島が含まれていると見るべきである。

韓国の主張の問題点

サンフランシスコ平和条約は、竹島は日本に帰属するという認識をもって作成されたことが当時の外交文書から明らかです。

米英等のサンフランシスコ平和条約の起草者は、竹島は日本に帰属するという認識をもって同条約第2条a項の「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮」を放棄するという条文を作成しました。具体的には、日本が放棄すべき地域を規定する構造をとることとし、かつ日本と朝鮮の間にある島の帰属を曖昧にすると将来紛争の原因になるとの観点から、単に日本が朝鮮を放棄する旨を規定していた米国案に「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む」との文言を加えたのです。

また、韓国は、1951年7月、サンフランシスコ平和条約の起草過程において、連合国側から「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を日本が放棄する旨の条約草案の提示を受け、米国に対して日本が放棄すべき地域に竹島などを加えるように文書により要請しました。これに対して米国は、同年8月、ラスク国務次官補名の正式な書簡を韓国向けに発出し、竹島は「朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年ごろから日本の島根県隠岐支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」として韓国の要請を明確に拒否しました(一般的に「ラスク書簡」と呼ばれます。)(資料⑥~⑧参照)

このように、サンフランシスコ平和条約において竹島が我が国の領土であることが確認されています。

韓国の主張

(出典:『韓国の美しい島独島』p.9,24, 26-27(韓国外交部))

大韓民国政府は、竹島に対する領土主権を行使している。大韓民国政府は、その主権に対するいかなる挑発にも断固かつ厳重に対応していき、引き続き竹島に対する主権を守っていく。

韓国の主張の問題点

韓国が、不法占拠中に竹島に対して行ういかなる措置も法的効力を有しません。

1950年代に韓国によって行われた竹島の占領は、国際法上何ら根拠がないまま行われた「力による現状変更」です。現在も続く韓国による竹島の占拠は不法占拠に他なりません。日本政府は、韓国が不法漁業への従事、巡視船に対する銃撃、建造物の構築、海洋調査、軍事訓練などの措置をとる都度厳しく抗議するとともに、その撤回を求めています。したがって、韓国が、不法占拠中に竹島に対して行ういかなる措置も法的効力を有さず、実効的占有の証拠とはなりません。

我が国は、国際法に基づき竹島問題を平和的手段により解決するため、1954年、1962年及び2012年に韓国側に対して国際司法裁判所(ICJ)への付託を提案してきましたが、韓国側は拒否しています。

韓国の「力の行使」による竹島の不法占拠は、国際法秩序を逸脱するものなんだね。

【資料①】1951年8月10日付米国国務次官補(国務長官代理)発 駐米国韓国大使宛書簡(ラスク書簡)

竹島に関する米国の認識を伝えた書簡等

所蔵:米国国立公文書館

赤枠部分の訳

草案第二条a項につき、「日本は1945年8月9日に、韓国並びに、済州島、巨文島、欝陵島、独島及びパラン島を含む日本の韓国併合以前に韓国の一部であった島に対するあらゆる権利、権原及び請求権を放棄したことを確認する」と規定するよう修正を求めるとの韓国の要請に関し、米国は、残念ながら、この修正提案には同意できない。米国政府は、1945年8月9日(原文のまま)の日本によるポツダム宣言受諾が、同宣言によって扱われる地域に対する日本の正式かつ最終的な主権の放棄となるとは見ていない。独島又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。

米国政府は、平和条約に竹島を韓国の一部として明記するように求めた韓国の要請を明確に拒否しているんだね。

【資料②】1952年12月4日付在韓米国大使館発韓国外務部宛口上書
所蔵:米国国立公文書館

【資料③】韓国外務部『獨島問題概論』 (部分)(1955年)
所蔵:韓国国会図書館(ウェブサイトにおいて公開)

赤枠部分の訳

在韓米国大使館は、韓国外務部の口上書に「独島(リアンクール岩)・・・は、大韓民国の領土の一部である」との記載が含まれていることに留意した。この島の領有に関する米国政府の認識は、1951年8月10日付ディーン・ラスク国務次官補発駐米韓国大使宛書簡に表明されているとおりである。

米国の立場は、サンフランシスコ平和条約が発効した後も、ラスク書簡を引用した形で、資料⑧により韓国政府に対し再び伝達されています。資料⑧は、韓国が、 「大韓民国の領土の一部である」竹島の上空において米軍機が爆弾投下したとの報告があったので追加情報を求めたのに対し、米側は事実確認ができないとしています。そして、韓国外務部の口上書に記載のあった「独島(リアンクール岩)は・・・大韓民国の領土の一部である」という声明について、竹島の領有に関する米国政府の認識は、ラスク書簡に表明されているとおりである(=朝鮮の一部として扱われたことは決してない)と回答しています。

韓国外務部は、竹島について韓国外交官により統一的な説明が行われることを確保するために作成した資料『獨島問題概論』(資料⑦)において、竹島の爆撃訓練区域指定の解除が韓国政府の要請で行われたことを示す資料として、資料⑧の口上書を引用しました。しかし竹島の所属に関する米国の見解を説明する部分を「etc.」と変えて省略しています。

韓国は米国をはじめとする条約締約国の竹島の領有認識を知りながら、「李承晩ライン」の設定など竹島の不法占拠のための行動をとったということだね。

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