竹島に関する資料の委託調査報告書

平成29年度報告書に掲載された資料例

  1. マ・ライン上の宝庫『竹島』禁止区域の撤廃へ 漁業協組が猛運動を展開(1951年(昭和26年)3月10日付毎日新聞島根版)
  2. 島漁区の操業制限の解除方に付陳情(崎漁業協同組合、知夫漁業協同組合等による陳情)(1951年(昭和26年)5月10日)
  3. 竹島に関する日本政府の見解(第1回日本政府見解)(1953年(昭和28年)7月14日付外務省記事資料)
  4. 竹島の領有権明確化へ 国連に提訴か 韓国の不誠意に強硬決意(1953年(昭和28年)7月14日付読売新聞)
  5. 竹島領有問題に関する日韓両国政府間の応酬 (1966年(昭和41年)3月10日)(雑誌『時の法令 別冊』)
  6. 東輿線表(鬱陵島)(1743年(寛保3年))(作成者不明)
  7. 朝鮮教会史(1874年(明治7年)()クロード・シャルル・ダレ著)
  8. 外務省告示第34号(1952年(昭和27年)7月26日付)
  9. 外務省告示第28号(1953年(昭和28年)5月14日付)
  10. サンフランシスコ平和条約に関する英米間協議(第7回会合議事要旨)
    Anglo - American Meetings on Japanese Peace treaty(1951年(昭和26年)5月2日)
  11. 1953年(昭和28年)7月15日付在東京英国大使館発英国外務省宛報告
    (Japanese claim to Takeshima island, also claimed by the Republic of Korea)
  12. ヴァン・フリート特命報告書
    REPORT OF THE VAN FLEET MISSION TO THE FAR EAST(1954年(昭和29年)9月30日)
  13. 英国海軍作成の竹島の素描画(1866年(慶応2年)8月9日)
  14. コラム:田村清三郎 〜島根県で活躍した竹島の専門家〜

1. マ・ライン上の宝庫『竹島』禁止区域の撤廃へ 漁業協組が猛運動を展開
(1951年(昭和26年)3月10日付毎日新聞島根版)

所蔵機関:島根県立図書館

 隠岐の漁業者は、戦前から竹島での漁猟の許可を得て操業していたが、戦後マッカーサーラインの規制によって、竹島での漁猟が禁止されていた。そして、島根県は1946年(昭和21年)7月26日に島根県令第49号で島根県漁業取締規則から竹島とアシカ漁業に関する項目を削除し、米国は1947年(昭和22年)9月16日に竹島を米軍海上爆撃訓練区域に指定した。
 この記事は、このような状況の下、隠岐の漁業協同組合長会議が竹島での漁猟復活を求め、竹島漁業復活請願決議を行い、猛運動を展開することになった旨伝えている。漁猟復活運動のリーダーとなった中川秀政(なかがわ・ひでまさ)は、隠岐出身で西郷(さいごう)町長を経て1947年(昭和22年)から6期県会議員を務め、県議会副議長、同議長にもなった。
 記事中、「五箇村(ごかむら)橋岡忠重(はしおか・ただしげ)氏 は“昭和十五年夏三十五頭を生捕り、同十六年は三十頭を捕獲した・・・”」といった、戦前における竹島での漁猟についての具体的な証言が掲載されている。橋岡忠重は戦前アシカ猟の権利を有しており、1948年(昭和23年)11月に竹島での漁業許可がその期限到来により失効した後、1953年(昭和28年)6月に改めて許可申請を提出して島根県から許可された人物である。橋岡は「許可が下り喜びにたえません。かつての経験を生かしてうんとガン張る覚悟です。(略)資材は十分用意はできているが、何しろ戦時戦後十二年余の空白があるので我々が昔建設した現地の建物、施設などはどうなっているかわからず、現地の施設を完備しなければ操業はできない」と語った。
 橋岡はまた、竹島に韓国人がいるとの情報が入ったため1953年(昭和28年)6月25日に隠岐高校水産科の実習船「鵬丸」で関係者が事実確認するために竹島に渡島した際、一行に加わった。その際、竹島の山はだを見て、「十三年前松の苗木二百本を植えたが育っていない」と語っている。
 なお、記事中、竹島は隠岐の漁民によって1667年(寛文7年)に「発見」されたとあるが、これは『隠州視聴合紀』を引用した奥原碧雲著『竹島及鬱陵島』の記述(同書P14-P15)によると思われる。江戸時代の他の文献からは、日本人が1667年(寛文7年)よりも前の時期から現在の竹島を利用していたことがうかがえる。

マ・ライン上の宝庫『竹島』禁止区域の撤廃へ 漁業協組が猛運動を展開<br>(1951年(昭和26年)3月10日付毎日新聞島根版)

2. 島漁区の操業制限の解除方に付陳情(崎漁業協同組合、知夫漁業協同組合等による陳情)
(1951年(昭和26年)5月10日)

所蔵機関:島根県竹島資料室

 戦前から竹島での漁猟の許可を得て操業していた隠岐の漁業者が、戦後マッカーサーラインの規制によって禁止されていた竹島での漁猟の再開を求めた陳情書である。島根県は1946年(昭和21年)7月26日に島根県令第49号で島根県漁業取締規則から竹島とアシカ漁業に関する項目を削除しており、1947年(昭和22年)9月16日には、竹島は米軍海上爆撃訓練区域に指定されていた(1951年(昭和26年)7月6日に引き続き指定)。
 隠岐の23の漁業組合が連名で作成したこの陳情書には、漁獲物の種類、出漁船数、漁業時期など、戦前の漁猟実績が記載されており、隠岐の漁業者が戦前竹島で行った漁労の実態が反映されている。また、同陳情には「状況書」が添付されており、「漁業権の変遷」の項目に大正9年5月5日、大正14年10月15日、昭和4年1月21日、昭和9年1月20日、昭和13年11月30日、昭和18年11月12日にそれぞれアシカ漁業の許可が行われてきたことが記載されており、竹島において、継続的に行政権が行使されてきた実態が読み取れる。
 この陳情書が実際にどこにどのように提出されたかは不明であるが、島根県は1952年(昭和27年)5月16日に「島根県規則第29号」で「島根県海面漁業調整規則」の一部を改正して「第四条(漁業の許可)」に「あしか漁業」を加え知事による許可漁業とした(※1)。理由には「すでに出漁希望者も相当数ある等の事情を勘案し捕獲制限する必要が認められ、戦前同様漁業として秩序維持を図りたい」としている。
 竹島の爆撃演習地についても、島根県は1952年(昭和27年)5月20日、外務大臣と農林大臣に「島根県隠岐支庁管内竹島を駐留軍の爆撃演習地より除外されたい。」という陳情書を提出した。
 この陳情書は島根県会議員を務めた中川秀政が残した資料の中に含まれていた。中川は隠岐島漁業協同組合連合会の初代の代表理事、会長でもあり、「竹島の領土権確保と島民の利益擁護に関する陳情」等積極的に県や国に陳情を繰り返した。

島漁区の操業制限の解除方に付陳情(崎漁業協同組合、知夫漁業協同組合等による陳情)(1951年(昭和26年)5月10日)

3. 竹島に関する日本政府の見解(第1回日本政府見解)(1953年(昭和28年)7月14日付外務省記事資料)

所蔵機関:島根県立図書館

 1953年(昭和28年)7月13日、日本政府は竹島領有の正当性を主張し、韓国に対して、口上書をもって反論した。本資料は同口上書の発出の翌日(7月14日)に日本国外務省が対外的に発表した、当該口上書と同内容の記事資料である。これ以降この口上書を含め4回にわたって日韓両政府間で口上書の応酬が続いた。
 この口上書において、古来、日朝のいずれが、より明確に竹島を認識し、領有してきたかという歴史的な論点、1905年(明治38年)の竹島の島根県編入とその後の実効支配についての国際法的な論点、戦後の日本領土の確定過程についての論点、の三つの論点をもって日本の竹島領有の正当性を主張した。

竹島に関する日本政府の見解(第1回日本政府見解)(1953年(昭和28年)7月14日付外務省記事資料)

4. 竹島の領有権明確化へ 国連に提訴か 韓国の不誠意に強硬決意
(1953年(昭和28年)7月14日付読売新聞)

所蔵機関:読売新聞社

 1953年(昭和28年)7月12日の竹島での巡視船「へくら」銃撃事件を受け、国際司法裁判所提訴を含めた日本政府の方針が検討されたことを伝えている。なお、翌13日に日本政府は韓国政府に対し抗議の口上書を発出し、翌14日にその内容を対外的に公表した(※)。
 本件記事は、上記事実関係についてとりあげているほか、韓国による李承晩ラインの一方的設定以来この時点までに発出された竹島問題に関する日韓両国間の口上書(日本:1952年(昭和27年)1月28日、韓国:1952年(昭和27年)2月12日、日本:1952年(昭和27年)4月25日)を紹介して、日韓両国の主張を整理している。
※本報告書資料No.3 (P16)参照

竹島の領有権明確化へ 国連に提訴か 韓国の不誠意に強硬決意(1953年(昭和28年)7月14日付読売新聞)

5. 竹島領有問題に関する日韓両国政府間の応酬 
(1966年(昭和41年)3月10日)(雑誌『時の法令 別冊』)

所蔵機関:国立国会図書館

 竹島問題に関する日韓間の口上書の応酬の経緯の一覧。1952年(昭和27年)~1965年(昭和40年)の間に、日韓両政府がそれぞれ相手国政府に対して送付した口上書(日本32回分、韓国24回分)の日付や概要が一覧表の形でまとめられている。

竹島領有問題に関する日韓両国政府間の応酬 (1966年(昭和41年)3月10日)(雑誌『時の法令 別冊』)

6. 東輿線表(鬱陵島)(1743年(寛保3年))(作成者不明)

所蔵機関:神戸市立博物館

 東輿線表(とうよせんぴょう)は、方眼罫線を使用して経緯度線が描かれた朝鮮地図帳。所収の「鬱陵島図」には、鬱陵島東岸約2-3kmに浮かぶ竹嶼の位置に「于山」島が描かれている。この東輿線表は、朝鮮の官製地図とされる『朝鮮地図』(ソウル大学校奎章閣韓国学研究院所蔵、奎16030)所収の「鬱陵島図」に比して、方眼線のみならず全体的な構図と記載内容がほぼ一致している。
 1692年(元禄5年)から1696年(元禄9年)にかけ、日朝間で争われた鬱陵島での漁業紛争(「竹島一件」、韓国では「欝陵島争界」)以降、朝鮮朝廷は鬱陵島に検察使を派遣するようになるが、それまで朝鮮の古地図において主に朝鮮半島側に描かれていた于山島が、以後東側に描かれることが多くなる。
 この資料の「鬱陵島図」には、方眼罫が引かれ、図上の記載から一辺が約20里(およそ8km)であると考えられる。したがって、鬱陵島図並びに総図に描かれた鬱陵島東側の「于山」島の位置にあるのは、竹嶼である。

東輿線表(鬱陵島)(1743年(寛保3年))(作成者不明)

7. 朝鮮教会史(1874年(明治7年))(クロード・シャルル・ダレ著)

所蔵機関:国立国会図書館

 フランス人宣教師クロード・シャルル・ダレの著作『朝鮮教会史』(Histoire deL'Église de Corée、1874年(明治7年))。朝鮮における地理、歴史、政治制度、社会制度、風俗などの基礎的な情報が記載されている。(なお、この『朝鮮教会史』は、19世紀中頃に朝鮮に滞在していた別の仏人宣教師が収集した資料等をもとに、後年ダレが編纂、作成したものであり、ダレ自身は朝鮮を訪れていない。)
 同書第一編の「朝鮮の自然地理学。-土地。-気候。-産物。-住民。」において、パリ子午線を基準として東経128度30分「"128°30’ de longitude est de Paris."」(グリニッジ子午線を基準にすると、東経130度50分)を朝鮮の東端としていることがわかる。
 竹島の経度は東経131度52分であり、本書における朝鮮の東限よりも東側に位置する。
 なお、鬱陵島の経度は東経130度52分であり、若干の誤差はあるものの、クロード・シャルル・ダレが鬱陵島を朝鮮の東端として捉えていたものと考えられる。
 すなわち、19世紀中頃のフランス人の認識においても、竹島は、朝鮮の領域の範囲外であったことが明確にわかる。

 『朝鮮協会史』は、1882年(明治15年)に榎本武揚が、1979年(昭和54年)に金容権がそれぞれ日本語で翻訳、出版している。

※パリ子午線とは、仏パリにあるパリ天文台を通過する子午線(経線)のこと。英旧グリニッジ天文台を起点とする現行の子午線を基準にすると東におよそ2度20分の差がある。

朝鮮教会史(1874年(明治7年)()クロード・シャルル・ダレ著)

8. 外務省告示第34号(1952年(昭和27年)7月26日付)

所蔵機関:島根県立図書館

 マッカーサーラインが廃止され、サンフランシスコ平和条約が発効した直後の1952年(昭和27年)7月、米軍が引き続き竹島を訓練区域として使用することを希望したことを受け、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取極。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき設置された日米合同委員会において、竹島は在日米軍の使用する爆撃訓練区域の1つとして指定された。本資料は、外務省がその旨を告示したものである。米軍に提供する「施設及び区域」として竹島が指定されたのは、米国が竹島を日本の領土であると認識しているからであって、本告示はこれを明確に示している。

外務省告示第34号(1952年(昭和27年)7月26日付)

9. 外務省告示第28号(1953年(昭和28年)5月14日付)

所蔵機関:島根県立図書館

 1952年(昭和27年)7月26日付外務省告示第34号(※)において、竹島が在日米軍の爆撃訓練区域として指定された旨告示されたが、竹島周辺海域におけるアシカの捕獲、あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること、また、米軍も1952年(昭和27年)冬から竹島の爆撃訓練区域としての使用を中止していたことから、1953年(昭和28年)3月19日の日米合同委員会で竹島爆撃訓練区域を米空軍訓練区域から削除する旨の提案が承認され、同年5月1日に日米合同委員会における日米両政府の代表者が竹島を米空軍の爆撃訓練区域から削除することに合意した。本資料は、同年5月14日に外務省がその旨を告示したもの。
 米軍に提供する「施設及び区域」として指定されていた竹島爆撃訓練区域について、地元(隠岐の住民)の要請等を受けて日米合同委員会で削除を決定したことは、米国が竹島を日本の領土であると認識しているからであり、本告示はこれを明確に示している。
※本報告書資料No.8(P29)参照

外務省告示第28号(1953年(昭和28年)5月14日付)

10. サンフランシスコ平和条約に関する英米間協議(第7回会合議事要旨)
Anglo - American Meetings on Japanese Peace treaty(1951年(昭和26年)5月2日)

所蔵機関:英国国立公文書館

 サンフランシスコ平和条約に関する1951年(昭和26年)5月2日の英米間の第7回会合の議事要旨である。
 1951年(昭和26年)4月7日付け作成の英国草案の領土条項(第1条)では、日本の主権が及ぶ範囲について日本を囲む線で示す方式が採用され、竹島は当該線の外側に置かれていた。
 一方、1951年(昭和26年)3月23日付けで成案を得ていた米国草案では、「日本は朝鮮、台湾及び澎湖諸島に関するすべての権利、権原及び請求権を放棄する(“Japan renounces all rights, titles and claims to Korea, Formosa and the Pescadores”)」とだけ規定していた。
 英米間の協議後、1951 年(昭和26年)5月3日付けの米英共同案では、朝鮮に関する日本の放棄条項について、「日本は朝鮮(済州島、巨文島及び鬱陵島を含む)に関するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」という規定とすることとなった。
 同草案作成の前日(1951年(昭和26年)5月2日)に行われた英米間の第7回会合の議事要旨には、「(米英)双方の代表団は、日本が主権を放棄する領土のみを特定することが望ましい旨合意した」とあり、「合衆国(草案)第3条は、済州島、巨文島及び欝陵島の3島の挿入を必要とするであろう。」と記録されている。
 このように、条約草案の策定過程において、英国草案(日本を線で囲む方式、竹島を線外に置く)は、取り下げられた。こうして、サンフランシスコ平和条約上竹島を日本領土に残すことが確定したのである。
(英国国立公文書館所蔵文書 FO371/92547, FJ1022/376)

サンフランシスコ平和条約に関する英米間協議(第7回会合議事要旨)Anglo - American Meetings on Japanese Peace treaty(1951年(昭和26年)5月2日)

11. 1953年(昭和28年)7月15日付在東京英国大使館発英国外務省宛報告
(Japanese claim to Takeshima island, also claimed by the Republic of Korea)

所蔵機関:英国国立公文書館

 1953年(昭和28年)7月12日に竹島で巡視船「へくら」が韓国側から銃撃される事件が発生し、翌々日の14日に日本の閣議で岡崎外相が竹島問題の解決のため英米両政府に仲介を依頼するという発言があった(※)。これを受け、在東京英国大使館が竹島問題に関する説明(報告)を本国外務省宛に行った。サンフランシスコ平和条約第2条a項を根拠として、「竹島は間違いなく日本領の一部を形成している」と断言している。
※参考記事「1953年(昭和28年)7月14日付読売新聞(夕刊)」(本報告書P38)

1953年(昭和28年)7月15日付在東京英国大使館発英国外務省宛報告(Japanese claim to Takeshima island, also claimed by the Republic of Korea)

12. ヴァン・フリート特命報告書
REPORT OF THE VAN FLEET MISSION TO THE FAR EAST(1954年(昭和29年)9月30日)

所蔵機関:米国国立公文書館

 ジェームズ・ヴァン・フリート大統領特命大使は、1954年(昭和29年)4~7月にかけて、韓国、台湾、日本、フィリピンを訪問して調査を行った。その後、同大使は、同年10月4日にアイゼンハワー米大統領にその調査結果を提出した。これが、本報告書(ヴァンフリート特命報告書)である。同報告書には、各国の軍備状況等に関する報告と米国のとるべき軍備政策に関する提言が含まれている。竹島問題に関しては、サンフランシスコ平和条約草案の起草過程において、米国は、韓国の要求にもかかわらず、竹島は日本の主権下にとどまり、日本が所有権を放棄する諸島には含まれないと結論づけたこと、米国は、当該諸島が日本の領土であると考えているが、当該紛争に立ち入らないこととしてきたこと、竹島問題は国際司法裁判所(ICJ)に付託して解決すべきであることを米国は韓国に提案したことが記されている。

ヴァン・フリート特命報告書REPORT OF THE VAN FLEET MISSION TO THE FAR EAST(1954年(昭和29年)9月30日)

13. 英国海軍作成の竹島の素描画(1866年(慶応2年)8月9日)

所蔵機関:英国国立公文書館

 “Liancourt Rocks - Japan Sea”というタイトルの1866年(慶応2年)作成の素描画(※「Liancourt Rocks」とは、江戸時代後期から明治中期にかけての竹島の呼称)。本素描画は、英国海軍艦艇バローサ(Barrosa)号から竹島を望んで書かれた対景図。スケッチ上に記された文字から、左側の画は同船から、N3/4E(ノース・スリークォーター・イースト)(方位角33.75度)の方向で距離6マイルに位置する竹島の島影を、右側の画は同船から西方9マイルに位置する竹島の島影をそれぞれ描いたものと考えられる。
 スケッチの描写は正確なものであり、次頁に掲載した竹島の東西二つの島のうち、西側にある左側の男島の方が東側にある女島よりも標高が高く描かれている。遠くから眺めたとき、その姿は、現在とほぼ変わらない。このスケッチが描かれた当時、誰が百年後にこの島が日本と韓国の争いの場となることを予想することができただろうか。
 もっと島に近づけば、現在と違って草木のほとんど生えていない岩肌や和布や鮑などの豊かな海産物、そしてアシカの姿を見ることができたにちがいない。

 英国海軍による同素描画において、リアンクール岩(現在の竹島)が日本海の島として佐渡島と同じスケッチ用紙に描かれている。なお、同じ資料群における素描画としては、「ADM344/1566 対馬、周防灘」、「ADM344/1567 竹島、佐渡、タブシマ(ママ:山形県の飛島(とびしま)のことと考えられる)」、「ADM344/1568 函館、北海道駒ヶ岳」、「ADM344/1569 函館山、函館湾周辺」、「ADM344/1570 利尻島、礼文島」、の5種類が確認されている。英国国立公文書館は、これらのスケッチをいずれも日本の地域が描かれたスケッチ群として所蔵している。

英国海軍作成の竹島の素描画(1866年(慶応2年)8月9日)

コラム:田村清三郎

〜島根県で活躍した竹島の専門家〜

 戦後、竹島研究の第一人者といえば、『竹島の歴史地理学的研究』、『竹島の領有』の著書で知られ、外務省条約局等で活躍した川上健三(かわかみ・けんぞう)氏であろう。川上氏は外務省職員として、国の立場で竹島問題に取り組んだ人物である。川上氏が活躍した同時代に、地元島根県においても、竹島研究に一心に取り組み、多大な業績を残した人物がいた。本コラムで紹介する田村清三郎(たむら・せいざぶろう)氏である。...

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