第4回障害者に対する偏見や差別のない共生社会の実現に向けた対策推進本部幹事会 議事概要 p1 (開催要領) 日時 令和6年11月7日(木曜日)13時から14時28分まで 場所 8号館1階講堂 出席者 (※作業者注・【墨付きかっこ書き】で前後を挟んでいるのは代理出席者) 議長 内閣官房副長官補(内政担当) 副議長 内閣府政策統括官(共生・共助担当) 構成員 内閣総務官【内閣官房内閣参事官(内閣総務官室)】、内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)、内閣人事局人事政策統括官【内閣官房内閣審議官(内閣人事局)】、内閣法制局総務主幹、宮内庁長官官房審議官、公正取引委員会事務総局官房総括審議官【公正取引委員会事務総局官房人事課企画官】、警察庁長官官房長【警察庁長官官房企画課企画官】、個人情報保護委員会事務局長、カジノ管理委員会事務局次長【カジノ管理委員会事務局総務企画部長】、金融庁総合政策局総括審議官【金融庁総合政策局審議官】、消費者庁次長【消費者庁審議官】、こども家庭庁成育局長、こども家庭庁支援局長【こども家庭庁長官官房審議官(支援局担当)】、デジタル庁戦略・組織グループ長、復興庁統括官【復興庁統括官付参事官】、総務省大臣官房政策立案総括審議官、法務省大臣官房長【法務省人権擁護局長】、外務省総合外交政策局長【外務省総合外交政策局人権人道課長】、財務省大臣官房審議官、文部科学省総合教育政策局長【文部科学省大臣官房審議官(総合教育政策局担当)】、文部科学省初等中等教育局長【文部科学省大臣官房文部科学戦略官】、厚生労働省職業安定局長【厚生労働省高齢・障害者雇用開発審議官】、厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長、農林水産省農村振興局長【農林水産省農村振興局農村政策部長】、経済産業省経済産業政策局長【経済産業省経済産業政策局経済社会政策室長】、国土交通省総合政策局長【国土交通省総合政策局バリアフリー政策課長】、環境省大臣官房長【環境省大臣官房政策立案総括審議官】、防衛省大臣官房長【防衛省政策立案総括審議官】 p2 オブサーバー 人事院事務総局総括審議官、会計検査院事務総局次長 有識者 静岡県立大学名誉教授 石川 准、弁護士 田門 浩、公益財団法人世界人権問題研究センター理事長 坂元 茂樹 アドバイザー 東京大学先端科学技術研究センター特任研究員 大河内 直之 ヒアリング対象 旧優生保護法訴訟原告団(仙台) 飯塚 淳子(仮名)、旧優生保護法訴訟原告団(仙台) 千葉 廣和、旧優生保護法訴訟原告団(愛知) 尾上 敬子、旧優生保護法訴訟原告団(愛知) 尾上 一孝、旧優生保護法訴訟原告団(兵庫) 鈴木 由美 p3 (議事次第) 1.開会 2.議事 (1)当事者からのヒアリング 旧優生保護法訴訟原告の方 (2)質疑応答 3.閉会 (議事概要) ○内閣官房副長官補より、今回は旧優生保護法国家賠償訴訟の原告の方からお話をお伺いし、各府省庁で取組を点検し、障害者の差別の根絶等に向けた改善策を検討してまいりたい旨の発言があった。 ○旧優生保護法の国家賠償請求訴訟の原告団の方から、次のとおり説明があった。 ○関哉弁護士:7月3日、最高裁判決が出て以来、国として、このような対策推進本部を開いていただき、原告団としても弁護団としても、その役割と今後の対応について、非常に期待して見守っているところ。 当事者の方がこうやって集まって話をさせてもらう機会というのが、なかなか作りづらい状況にあり、年齢もどんどん高くなっていって、今後ますますそういった声を集めにくくなってくるので、是非この機会を大切にしていただきたいと思っている。 この対策推進本部を開くに当たって、国として差別・偏見の根絶や教育・啓発の推進ということでうたっていただいているが、例えば法律や教育というところで奪われてきた尊厳を、まさに法律や教育という形で取り戻してほしいというのが、我々原告団、弁護団の切なる願い、思いである。例えば教育においては、今後、教科書にどういうことを載せていくかであるとか、国連の権利条約でも指摘されているインクルーシブ教育の実現であるとか、あるいは既存の人権擁護活動にこういった問題をどう組み合わせていくのかとか、あるいは国際的に権利条約の締約国会議のサイドイベントなどで、こういった問題をしっかり国際的に周知していく必要であるとか、いろいろな省庁がそれぞれまたがって解決していくべき問題というのがあろうかと思う。 p4 そのため、今後、具体的にどういった取組につなげていくのかということを是非意識していただき、今日のお話をしっかり聞いてもらえると幸いである。 まず、原告のお一人で、ずっとこの活動を支えてこられた仙台の飯塚淳子さんからお話をいただく。 ○飯塚淳子様(仮名):宮城県の被害者である私は、16歳のときに、何も説明されないまま優生手術を受けさせられた。私は、両親が話をしているのを聞いて、自分が子供を産めなくなる手術をされたことを知ったが、その当時は優生保護法という法律のことも優生手術のことも全く知らなかった。 優生手術は、私から幸せな結婚や子供という穏やかな夢を全て奪った。若い頃には縁談が幾つもあったが、子供が産めないという負い目から受けることができなかった。幼なじみと結婚したが、子供ができないことで気まずくなり離婚した。その後、とても良い人と結婚したが、内緒にしていることが心苦しくなり、夫に手術のことを打ち明けた。私は夫を信頼していて打ち明けたが、夫は自分の血のつながった子供、子孫が欲しいと言って出ていってしまった。夫の兄にも、子供ができないことを口汚く罵られたり、義理の母にも冷たく離婚を求められた。私は、嫁ぎ先にいられなくなり、実家に逃げ帰った。精神的なストレスから病気になり、働けなくなった。優生手術によって、私の人生は狂わされた。 優生保護法は国が作った法律だが、私は自分を優生手術に追い込んだのは民生委員と職親だと思っている。民生委員と職親を強く恨んでいる。宮城県では知的障害者の収容施設が造られ、収容施設の入所者が優生手術の対象として狙い打ちされた。私は、その収容施設の元利用者である。当時、民生委員が障害者を施設に入所させる活動をしていたと聞いた。私は、本当は障害などなかったのに、民生委員によって知的障害ということにされて収容施設に入れられ、手術された。 障害者だということで、ひどい差別や虐待も受けた。私は、施設を出た後、住み込みのお手伝いとして職親のところに預けられたが、職親から、他人の子供だから憎たらしいと言われ、馬乗りになってほうきでたたかれたり、「ばかだ、精薄だ」「それ以上食べるともっとばかになる」と、食事のお代わりもさせてもらえなかった。 優生手術のとき、私を橋を渡ったところにある診療所に連れていったのも職親だった。父親からの手紙には、職親から「印鑑押せ」と責められて、やむなく印鑑を押したと書いてあった。 民生委員と職親からの虐待が今でもフラッシュバックする。民生委員と職親から受けた虐待が心的外傷となっており、PTSDになっていると診断されている。 私は、平成9年に「優生手術に対する謝罪を求める会」に出会い、その後27年以上もの間、優生手術の被害を訴えてきた。しかし、国は、「当時は合法、謝罪も調査もしない」と繰り返した。 p5 私は、手術記録がないことでも苦しめられた。宮城県に手術記録の開示を請求したが、私の関係記録は廃棄され、手術自体を証明するものは存在しないという回答だった。記録が残っていないのも国の責任ではないか。私は、長い間、たった1人で声を上げ続けた。この被害が闇に葬られてはならないと思い、歯を食いしばって訴え続けた。 そして、私が日弁連に人権救済の申立てを行い、平成29年に日弁連の意見書が出されたことで、ようやく仙台の第1次提訴の原告、佐藤さんが名乗りを上げてくれた。宮城県知事が私を被害者と認めると言ってくれて、平成30年にようやく私も提訴することができた。こうして私もようやく提訴したが、国が争い続け、仙台地裁も仙台高裁も敗訴した。令和4年は被害者勝訴判決が続いていたので、仙台高裁には期待していたが、私が両親の話を聞いたことで優生手術を受けたことを認識したと言って請求を認めなかった。 16歳の子供に分かるはずがない。とんでもない話である。ほかの被害者は救済されたのに、早くから被害を訴えた私と佐藤さんだけが認められないことになるのではないかと恐れた。最高裁だけが最後の希望だったが、判決をもらうまで不安で不安でたまらなかった。国が長く争い続けたことによっても、私の苦痛は長く続いた。 最高裁で判決が出るまで、私たち被害者の苦しみは続いた。最高裁の判決で、優生保護法は最初から明らかに憲法違反だったと言われていると聞いた。そんなひどい法律による被害なのに、私はなぜもっと早く責任を認めてもらうことができなかったのか。 私は、先日、裁判の和解をした。しかし、和解をしたからといって、私の人生が戻ってくるわけではない。本当は、私は体を元に戻してほしい。それができないなら、せめて二度とこのような被害を起こさないようにしてほしいと思う。 ○関哉弁護士:続いて、同じく仙台訴訟の原告であった千葉廣和さんからお話をいただきたい。 ○千葉廣和様:私は、宮城県の被害者である。知的障害者の職業訓練施設に入所中、18歳のときに優生手術を受けさせられた。 私は、小学4年生から家族と離れ、母方の祖父の家で暮らしていた。私は、家族と一緒に暮らしたいという思いだったが、願いは叶わず、中学を卒業後も住み込みや父母の実家から通うなどして働き、17歳のとき施設に入所させられた。施設入所は、父親が一方的に決めたことで、私の希望や意思を聞かれることはなかった。 施設は男女入所型の職業訓練施設だった。私は、園芸科に所属した。職員の教えは厳しく、暴力を振るわれることもあった。施設に入所して1年ぐらいたったある日、施設の職員に何の説明もされずに入所者の仲間2人とライトバンに乗せられ、仙台の橋の近くにある診療所に連れていかれ、優生手術を受けさせられた。手術前に看護師から脱腸と聞かされたが、ずっと腑に落ちずにいた。翌日、母親が来たが、手術のことについての会話はなく、私も聞かなかった。当時の私は、周りが決めたことの言いなりだった。 p6 施設では、何人もの仲間がライトバンに乗せられて出かけたこと、お風呂でたくさんの仲間に自分と同じ傷を見たことなど、はっきり覚えている。しかし、誰も手術のことを職員に聞いたり、文句を言ったりしなかった。子供ができなくなる手術を受けさせられたことは、後で仲間から聞いて、何となく分かった。 施設を退所した後、就職先ではひどい差別や虐待を受けた。木工所に就職したときは、健常者の従業員から、角材を運んでいるときわざとぶつけられたり、角材を上から落とすのを下で受け取るとき、うまくつかめないように的を外され、わざと体に当たるようにされた。うまく仕事ができないといって罵倒され、暴力も振るわれた。食事も丼飯におかずが少しで、栄養失調になった。 ある日、社長から、クビだ、家に帰れと言われ、タクシーで実家に帰された。そのとき母親に、なぜ辞めてきたのかと怒られ、悲しい思いをしたことを覚えている。 養豚場に住み込みで働いていたときに受けた虐待は、特にひどいものだった。同じ施設出身の仲間数名が一緒に働いていた。朝早くから夜遅くまで豚の世話をさせられた。出産にも立ち会い、夜も眠ることができず世話をさせられた。もたもたしていると電気むちでヘルメットの上からたたかれるなどの暴力を受けた。素手ではなく、物を投げつけたり、物でたたくというものだった。仲間たちも暴力を受け、体も心もぼろぼろだった。棒で目の部分をたたかれ、片目を失明した仲間もいた。また、逃げた仲間もいた。私も一度逃げたが、車で追いかけられ、捕まってしまい、そのときの恐怖から二度と逃げることはしなかった。 この職場を紹介した施設職員は、職場の実態を知っているはずなのに助けてくれなかった。父親は、「男のくせにぺらぺらしゃべるな。」が口癖だった。帰省したとき、職場のことを話そうとしても、「我慢して働け。辞めるな。」と言われるだけのため、だんだん言わなくなった。そんな地獄のような職場は訴えられて閉鎖され、やっと開放された。その後も住み込みで働くなどして生活した。 56歳のとき、ある日突然、父親に、明日からグループホームに入ることになったと告げられ、グループホームに入所した。その頃、障害者のことを理解し、支援してくれる職員など、私たちが支援者と呼んでいる方々と出会い、楽しい、穏やかな生活が始まった。59歳のときに、今いるグループホームと作業所に移った。ここでは、好きな山の絵を描いたり、3B体操など、心身ともにリラックスできる活動をしている。山の絵では、絵画展で6回入賞した。歴史も好きで、いろいろな場所に旅行に行き、本や新聞を読むこと、音楽を聞くことも好きである。楽しいと思える時間を過ごし、今は幸せだ。 2018年1月の仙台の最初の裁判のことをテレビや新聞で見て、自分のあの日のこととつながり、ずっと関心を持って見ていた。飯塚さん、佐藤さんの話をテレビや新聞で聞いていく中で心が動かされていく自分がいて、支援者に自分も優生手術を受けたと打ち明けた。そして、弁護士とも相談して、2018年12月に私も提訴した。このような行動ができるようになったのは、ピープルファーストという団体の活動に参加したからである。ピープルファーストは、障害者の自己決定について当事者運動を行っている団体である。その大会で、私たちは障害者である前に1人の人間だということ、言いたいことは主張してよいのだということを学んだ。 p7 これまでも差別や偏見がなくなることはなかったし、今もいろいろ悲しいことが起きている。優生手術のことも、障害者は要らないと、存在を否定された結果であり、悲しい。障害がある人たちがどんな思いで、どんな状況で生きてきたかを想像し、考えてほしい。そして、優生思想や偏見・差別をなくすための対策を取っていただくようお願いする。 ○関哉弁護士:続いて、愛知県訴訟の原告の尾上敬子さん、尾上一孝さんに続けて話をしてもらうが、まずは尾上敬子さんから話をしていただく。 ○尾上敬子様:私は、生まれつき全くきこえない。昭和50年に結婚した。結婚した後は、子供がいれば子供と遊んだり、買い物に行ったり、喋ったりしたいという夢を持っていた。しかし、母から、子供をつくってはいけないと言われ、非常に反対され、なぜ駄目なのかと聞くと、2人ともきこえないので、きこえない夫婦の下に子供が生まれたら育てるのは無理と言われ、子供をつくるのは駄目と常に言われていた。非常に苦しかった。言われることに従ってピルを飲んで4か月ほどしたときに、夫はそのピルを飲んでいることにも全く気がつかないぐらい知らなかったのだが、ピルはあまり体に合わなかったので、飲みたくないと言った。 そうすると、母に、子供がつくれなくなる手術をしなさいと言われたが、私はすごく嫌だった。夫には言えなかった。夫の母と私の母が相談し、夫は全く知らないまま手術の予約をした。母が子供を産んでは駄目と言ったので勝手に手術の予約をしたということを知り、夫は深く傷ついた。手術をした後、けんかが絶えなくなり、うまく生活できないときが続いた。離婚したほうがいいのかなと思うときもあり、離婚したいと申し出たが、それは叶わなかった。 2018年、仙台の飯塚さんがテレビに映っていて、私と同じだと思ったが、言えないでいた。2022年、裁判を提訴し、7回の期日を迎えた。3月、勝訴した。勝訴は嬉しかった。今まで誰にも言えなかった気持ちが晴れたような気がする。よかったと思う。本当は母を恨んでいたが、中身をよく知ってみると、法律のことは今まで知らなかったため、勉強してみたら、法律を作った国が悪かったということが分かり、最高裁もしっかり傍聴して、勝ったことが嬉しく、20年の除斥期間というものを法律で認めないことになり、勝訴し、非常に嬉しかった。 岸田首相にも謝罪をいただき、人生を返してほしいというふうに訴えた。何度も謝罪をしてくれた。少しだけ気持ちが落ち着いた感じがする。これから差別のない社会をつくってほしい。皆さんもその社会に向かって、是非いろいろな政策をしていっていただきたいと思う。 p8 もう一つは、私たちの裁判の中、3回目のときに、国から、私が裁判を受けたことを不知と言われ、非常に悔しく、家に帰って髪を剃った。産婦人科に行き、きちんと検査をして卵管が結索してあるという証拠を見つけてもらった。不知と言われたときは本当に悔しかった。 ○関哉弁護士:続いて、一孝さんからお願いしたい。 ○尾上一孝様:昭和22年に生まれた、その次の年、23年に優生保護法ができた。それから、ずっとその法律は続いてきた。昭和50年に私たちは結婚した。もう約50年前のことになる。そして、交際している期間のときに子供のことを話すことは一切なかった。 私は、小学1年から長いこと寮の暮らしをしていたため、そのときに小さい後輩たちをかわいがって、一緒に遊んだり、勉強したり、そういうふうに子供と遊ぶのが好きだった。将来、いつか私も結婚して子供を持って、このような小さい子供たちと遊ぶようなことを夢に見ていた。 結婚してから生活が落ち着いてきた頃に、子供について私のほうから妻へ話しかけてみた。すると、妻は、子供はつくりませんと言う。どうやら妻の母から、子供を産んではいけない。聾者だから、もし子供が生まれたとき、どうやって育てるのかということを言われたということで、コミュニケーションの問題があるのを理由に子供を産んではいけないと言われた。そして、私が賛成も何も言っていない間に勝手に病院での予約を済ませ、手術をすることになった。私としては、絶望的な気持ちになった。そして、その手術が嫌なら離婚してくれていいと言われて、余計頭が混乱し、パニックになった。 1か月間、考える時間がしばらくあったのだが、本当であれば、まず結婚して家を建てればよかったのだが、自分の生活設計の順序がちょっと違っていたものだから、彼女と離婚するということは絶対あり得ない。例えば、同じ聾者の方たちは、自営業として理容をやっているお店が多いのだが、私もそういった自営業を先に始めたものだから、一緒に仕事をやってくれる聾の彼女がぴったりふさわしかった。でも、彼女が子供の話をすると、もう手術以外は何も選択肢がないような、そして言われた親に頼っていくしかない。そんなつらい人生しか、私たちにはもう道がなかった。 だから、仕事を一緒にしているときは大丈夫だったが、それ以外の時間とかは思わず手が出てしまうほど、彼女が実家に帰って、それを謝って連れ戻す、土下座をするような離婚の危機を何度も体験した。彼女がどうしても必要。一緒に人生をやっていかなくてはいけないという気持ちがあったため、私が趣味を持つことで子供のことを少し忘れる時間が持てた。それはよかったと思う。本当だったら、生まれてきた子供と、その子供の成長を写真に撮ってアルバムを作ったり、写真が趣味なので、子供の記録をおさめたかった。 ほかの友達にも子供のことを言われるし、そういう子連れの人たちを見ると羨ましかった。そして、私たちは、もう子供の話は二度としないと封印し、約束した。ずっと口にしなかった。子供以外の話であれば、普通にやっていけた。そんなこんなで50年がたった。 p9 そして、仙台の裁判をテレビで知った。これが私たちに関係がある手術だったということが分かり、裁判をするという妻からの強い意思を聞いて、私もそれに同意して一緒に闘うことにした。本当なら、裁判はしたくなかった。でも、同じ被害を受けた方たちがたくさんいる。その人たちも声を上げられるように、一緒に闘いたいと思い、裁判をすることにした。弁護団や手話通訳、支援してくださる方、たくさんの皆さんのおかげで何とか裁判を続けることができた。 最初のほうは遮蔽措置をとり、顔は出さずにいた。そして、後半からは顔を出すようにした。理由としては、家に突然誰かが来たり、放火されたり、何か被害に遭うのではないかという怖さもあったから。でも、顔を出すようになってからも生活は何も変わらなかった。そして、私たちはその後も名前を出したり、堂々と活動した。それは皆さんのおかげである。 ○関哉弁護士:続いて、兵庫県訴訟の原告であった鈴木由美さんからお話をいただきたいと思う。 ○鈴木由美様:鈴木由美という。 ○吉倉弁護士:私は、弁護士の吉倉という。私から質問する形で話してもらおうと思っているが、オンラインで自宅からつなぐのが今回初めてで、声が小さいとか聞き取りづらいということだったら、遠慮なく途中で言ってもらえたらと思う。 鈴木さんは、小児脳性麻痺ということで、生まれたときから手足が不自由だったのか。 ○鈴木由美様:生まれたときは未熟児で、6か月たっても首が座らないということで先生に言ったら、先天性の脳性小児麻痺と言われたと祖母から聞いた。 ○吉倉弁護士:鈴木さんは、今、何歳か。 ○鈴木由美様:69歳になった。 ○吉倉弁護士:子供の頃のことについて聞くが生まれつき手足が不自由ということだが、小さい頃、外出することはあったのか。 ○鈴木由美様:祖母と一緒に、当時、乳母車に乗せてもらって散歩に連れていってくれていたのだが、大人の知らない方が私のほうを冷たい目で見たり、私と同じぐらいの年の子供を連れた母親が、自分の子供がだだをこねて泣いているときに、私のほうを見て「言うことを聞かなかったらあんな子になるよ」と言われて、何回かそういうことが続いたときに、祖母が、私がかわいそうだからだと思うけれど、そんな言葉を聞かさないように、だんだん家の中にいる時間が多くなった。 ○吉倉弁護士:鈴木さんにはお兄さんがいたという。お兄さんが小学校に上がって、鈴木さんはどんなふうに思っていたか。 p10 ○鈴木由美様:私も兄みたいに学校に行けるんだと思い、私は兄と3つ違いなので、兄が小学校3年生のとき、私も行ける、嬉しいと思っていたのだが。 ○吉倉弁護士:ランドセルを買ってもらえると思っていた。実際はどうだったのか。 ○鈴木由美様:実際は、言葉はきれい。当時、国が就学免除という制度を作って、障害があるから学校に通学するのはしんどいから、来なくていいという感じ。障害者の子が来たら手がかかる。当時、まだ学校には介助するのが大変ということがあるから、裏を返せばそうじゃないかなと思う。 ○吉倉弁護士:では、鈴木さんは小学校も中学校も行きたいけど、行けなかった。 ○鈴木由美様:はい。 ○吉倉弁護士:読み書きとかはどうやって勉強したのか。 ○鈴木由美様:読み書きは、祖母が、大きくなったら絶対に読み書きと数学は要るからと教えてくれて、あとは簡単な掛け算、引き算、九九は教えてもらった。 ○吉倉弁護士:そのうち、鈴木さん、12歳のときに、後で不妊手術と分かるんだけども、手術を受けたんですね。そのとき、鈴木さんは何の手術だと思っていたのか。 ○鈴木由美様:当時、私は立つことができて、おばあちゃん座りができたため、それがうまく座れるかなと、支えられなくてできるかなと思っていた。 ○吉倉弁護士:もっとうまく座れたり、支えがなくても立てるようになる手術かなと思ったということ。 ○鈴木由美様:入院したら病気が治るんだと思っていた。 ○吉倉弁護士:実際にどんな手術かという説明は全然なかったのか。 ○鈴木由美様:全然なかった。 ○吉倉弁護士:手術当日のことを聞くが、どんなことがあったか。 ○鈴木由美様:看護師が来て、朝御飯、簡単なものを食べさせてもらって、看護師さんが手違いで、おなかの中のものを出さないといけないから注射されて。 ○吉倉弁護士:麻酔を。 ○鈴木由美様:注射されて、おなかが痛くなると言われて、トイレに行き、そのときにも意識がはっきりしたままで便の始末を。 ○吉倉弁護士:麻酔をしてうとうとしていたのに、浣腸されて意識が戻った。その状態で手術室に運ばれた。 ○鈴木由美様:動くベッドの。 p11 ○吉倉弁護士:ストレッチャー。 ○鈴木由美様:ストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれて、そのとき手術室のドアを開けてストレッチャーが入ったら、天井には大きなライトがいっぱい光っていたし、周りは白衣を着て、マスクして、帽子をかぶってメスやハサミ光るものがいっぱい。思わず泣いた。泣いたときに口にマスクみたいなものを当てられて意識がなくなった。 ○吉倉弁護士:手術の後も何の手術だったか、説明は全くなかったということか。 ○鈴木由美様:はい。 ○吉倉弁護士:その後、周りの親戚とか家族の話から、自分が受けた手術が何となく不妊手術、赤ちゃんができなくする手術というのは分かったのか。 ○鈴木由美様:生理が来ない。 ○吉倉弁護士:生理が来ない。 ○鈴木由美様:赤ちゃんができないと思っていた。 ○吉倉弁護士:手術の後、鈴木さんの生活、体調とかはどう変化したか。 ○鈴木由美様:退院して5日ぐらいしたら自分が寝ている上には蛍光灯。これはどこかで見たものかなと思って、お母さんが御飯をつくって、スプーンがカチャカチャという音がして。 ○吉倉弁護士:洗い物の音か。 ○鈴木由美様:どこかで聞いたような、変なところの似たような音だったなと、あのときだと思って、怖かったと思って。 ○吉倉弁護士:手術のことをフラッシュバックみたいに思い出したのだろう。 ○鈴木由美様:それから緊張が始まり、1日に4回ぐらい近くの先生に行き、けいれんが起きないように注射して。 ○吉倉弁護士:体が緊張してけいれんが起きたりして、お薬もらったり。 ○鈴木由美様:注射したり。1日に5〜6回行って。それで20年ぐらい。 ○吉倉弁護士:20年ぐらい、外に出られないような寝たきりの生活になってしまった。その後、20年ぐらいの間、おうちで座る練習とか車椅子に座って。 ○鈴木由美様:私、こんなことなら何のために生まれてきたか分からない。鈴木由美という存在を家族は知っているけれども、世間は鈴木由美という存在を知らないだろう。だから、私が生きてきて頑張っている姿を見てほしいと思って、一生懸命毎日座る練習をして、やっと座れるようになった。 p12 ○吉倉弁護士:外に出られるようになったのが30代ぐらいか。その後、40代で結婚された。そのときに夫のお母さんから言われた一言を今でも覚えていると言っていた。何を言われたのか。 ○鈴木由美様:結婚するのは子孫繁栄のためにする、あなたにできるかと言われたけれど、私はできますとは言わなかった。子供ができない体になっているから答えられなかった。 ○吉倉弁護士:結婚する相手には、子供ができないというのは伝えていたか。 ○鈴木由美様:はい。 ○吉倉弁護士:その後、離婚に至ったわけだが、離婚するときに別れた夫から言われたことは何だったか。 ○鈴木由美様:子供がいたら離婚しなかっただろうなと言われ、子供できなくてもいいって言ったじゃないと思ったが、今さら戻ってこない。 ○吉倉弁護士:手術を受けたことで、その後の生活、人生が大分変わってしまった。 ○鈴木由美様:20年間の間に、普通だったら小学校ヘ上がって、中学校へ上がって、高校へ上がって、大学へ行って、また大学のときに成人式というのもあったと思う。でも、成人式に晴れ着を着ること、私はできなかった。それが一番悔しい。 ○吉倉弁護士:それで、その後、裁判をすることになって、最高裁では請求を認められたけれど、一審の神戸地裁では除斥期間ということで、時間切れと。国からもそんな主張があって、裁判所も時間切れと言われたが、そのときは鈴木さん、どう思ったか。 ○鈴木由美様:20年たったら駄目と言われても、私は情報がなかった。そんなこと分からない。できない。そのときだけ健常者扱いされても困る。 ○吉倉弁護士:最高裁で判決が出て、優生保護法という法律は今はないけれども、鈴木さん、どうだろうか。日頃、外に出ていて何か思うことはあるか。 ○鈴木由美様:今もある。この間も障害者がこんなところへ出てきたらいけない。もっと端っこへ行けと言われたけれども、またアホなこと言っているなと思って。こんなことを言わせる法律を作るから、こんなことになる。子供に就学免除がなかったら、今も学校は障害者の子供と健常者の子が特殊学級と普通学級で分かれている。なくしてほしい。 ○吉倉弁護士:分けて教育するのは必要ない。 ○鈴木由美様:同じ机を並べて、障害者の子を助けて、その子が大きくなったら、障害者の方を見たら普通に当たり前だと思う。何で障害者、健常者というのを分けるのか、それが不思議。 ○吉倉弁護士:あと、今、賃貸の物件で一人暮らしをされているが、最初、一人暮らしをするときに家探しに苦労したと思う。何軒ぐらい回ったのか。 p13 ○鈴木由美様:30軒。 ○吉倉弁護士:障害があるというだけで。 ○鈴木由美様:見ただけで門前払い。 ○吉倉弁護士:今もそれは残っていると思うか。 ○鈴木由美様:今もあると思う。 ○吉倉弁護士:あと、今、自宅で自分でどうしてもできないことはヘルパーに支援してもらっているが、ヘルパーについて何か思うことはあるか。 ○鈴木由美様:今、ヘルパー不足だと言われているのは、ヘルパーの給料が少ないからヘルパーが少ないのだ。 ○吉倉弁護士:ヘルパーの給料を上げるべきだということ。そうしたら、もっと障害のある方も外に出たり、自分がやりたいことができるだろうということ。 ○鈴木由美様:もっとヘルパーの給料とか介護士の給料を上げて、普通にみんなが仲良く暮らしていける。ヘルパーがいなかったら、私たちは生活できないから、その給料を上げてほしい。 ○吉倉弁護士:あと、障害のある方の仕事、働く場所について、どう思うか。 ○鈴木由美様:私も家にいるが、障害者の方も働きたい方がいると思う。私も働きたいが、働く場所が。だから、普通に働けるような場所をあちこち作ってくれたら、障害の程度に合った働く場所を計画してほしい。 ○吉倉弁護士:最後に、鈴木さんは、いつもとてもおしゃれで、今日も黄色いかわいらしいスカートをはいているが、障害のある方のファッションとかおしゃれとか、そういうことについて、鈴木さんとして思うことはあるだろうか。 ○鈴木由美様:私は、いつも思うのだが、障害のある方は、服はジャージだったり、髪はショートカットが多い。 ○吉倉弁護士:髪形ね。どうしてだろうか。 ○鈴木由美様:着せやすい服装を選んでいる。風呂に入ってシャンプーも簡単にできるからそうしている。 ○吉倉弁護士:世話する人がやりやすい服、やりやすい髪形。 ○鈴木由美様:絶対、それは嫌だから、昔から広告を見て、母に私が好きな服を買ってきてもらっていた。だって、同じ人間、おしゃれをしたいのは当然でしょう。なのに、髪型とか服装を制限される。障害者も人間、健常者も人間、同じ人間だから、障害があって恋愛してもいいし、子供を産んでもいい。それが今までなかったから、そんなことをしたのも国。そんな国をもっと自由に障害者が暮らせるように決めてほしい。 p14 ○吉倉弁護士:障害のあるなしにかかわらず、やりたいことが自由にできる社会になってほしいということ。 ○鈴木由美様:差別のないようにしてほしい。 ○講演の後、有識者及びアドバイザー(構成員)から以下のとおり意見があった。 ・被害者救済がこれほど遅れたのは、国内人権機関がなかったことが理由ではないか。また、優生思想の根絶に対して正面から向き合い、教育を見直し、多様性等について徹底的に学ぶことの必要性を感じた。 ・優生思想は人と人を分ける考え方が根本にあると思う。障害者がもっと見える形になり、地域で暮らす機会が増えれば、結果として障害者に対する偏見が少なくなることにつながると考えられる。 ・障害者である前に1人の人間であることを前提とした施策、特にインクルーシブ教育に積極的に取り組んでほしい。また、国内人権機関の設立について国外から勧告を受けていることを忘れてはならない。 ○質疑応答後、原告団の方から以下のとおり意見があった。 ○尾上一孝様:手話通訳の派遣について、お話ししたいと思う。今まで愛知県では、ボランティアで手話通訳をお願いしていた。派遣費用が、私はてっきり裁判所のほうから払われていると思ったら、そうではなかった。だから、手話通訳の方も、ボランティアではなく、きちんと仕事として認めてもらい、国のほうから裁判費用に関する通訳費用というものを出していただきたいと思っている。聾者の立場として、手話通訳なしでは裁判を起こすことはできない。絶対必要な存在で、手話通訳士という、きちんとプロとして仕事を持っているので、認めてもらって、国のほうからそういった費用がきちんと出るようにお願いしたいと思う。そういう制度をしっかりと作ってもらいたい。 新聞やテレビでもそういったことを広めてもらって、メディアで取り上げてもらってPRしてもらいたいなと思う。手話通訳の制度を国が負担するようお願いする。 (以上)