第3回障害者に対する偏見や差別のない共生社会の実現に向けた対策推進本部幹事会 議事概要 p1 (開催要領) 日時 令和6年10月21日(月曜日)15時から16時まで 場所 8号館8階818会議室 出席者 (※作業者注・【墨付きかっこ書き】で前後を挟んでいるのは代理出席者) 議長 内閣官房副長官補(内政担当) 副議長 内閣府政策統括官(共生・共助担当) 構成員 内閣総務官 【内閣参事官(内閣総務官室)】、内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)、内閣人事局人事政策統括官 【内閣官房内閣審議官(内閣人事局)】、内閣法制局総務主幹、宮内庁長官官房審議官、公正取引委員会事務総局官房総括審議官 【公正取引委員会事務総局官房人事課企画官】、警察庁長官官房長 【警察庁長官官房企画課長】、個人情報保護委員会事務局長 【個人情報保護委員会事務局次長】、カジノ管理委員会事務局次長、金融庁総合政策局総括審議官、消費者庁次長 【消費者庁審議官】、こども家庭庁成育局長、こども家庭庁支援局長、デジタル庁戦略・組織グループ長同復興庁統括官 【復興庁統括官付参事官】、総務省大臣官房政策立案総括審議官、法務省大臣官房長 【法務省人権擁護局長】、外務省総合外交政策局長 【外務省総合外交政策局審議官】、財務省大臣官房審議官、文部科学省総合教育政策局長 【文部科学省大臣官房審議官(総合教育政策局担当)】、文部科学省初等中等教育局長 【文部科学省大臣官房学習基盤審議官】、厚生労働省職業安定局長、厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部長、農林水産省農村振興局長 【農林水産省農村振興局農村政策部長】、経済産業省経済産業政策局長 【経済産業省経済産業政策局経済社会政策室室長】、国土交通省総合政策局長 【国土交通省総合政策局次長】、環境省大臣官房長 【環境省大臣官房総務課長】、防衛省大臣官房長 【防衛省政策立案総括審議官】 p2 オブサーバー 人事院事務総局総括審議官 【人事院事務総局審議官】、会計検査院事務総局次長 有識者 静岡県立大学名誉教授 石川 准、弁護士 田門 浩、公益財団法人世界人権問題研究センター理事長 坂元 茂樹 アドバイザー 特定非営利活動法人 DPI日本会議副議長 尾上 浩二、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員 大河内 直之 ヒアリング対象 東京大学先端科学技術研究センター教授 熊谷 晋一郎、特定非営利活動法人 DPI日本会議事務局長 佐藤 聡 (議事次第) 1.開会 2.議事 (1)障害当事者からのヒアリング (2)質疑応答 3.閉会 (議事概要) ○内閣官房副長官補より、前回の幹事会における有識者の意見を踏まえ、出席されている障害当事者の方から意見を頂戴し、これからの取組の検討に活かしたい旨の発言があった。 ○ヒアリング対象の熊谷教授から以下のとおり説明があった。 私から「差別や偏見のない共生社会の条件」というタイトルでお話をしたいと思う。私自身、脳性麻痺という身体障害を持っていて、電動車椅子に乗って生活をしている。小児科医としての仕事をした後に、現在は東京大学で研究活動をしている。 私が生まれた1970年代は、健常者に近づけさせなければ生きていかれない社会、言ってみれば均質性を目指すような社会だった。 しかし、1980年代に入り、「障害の社会モデル」という考え方が主流化することで差別・偏見が緩和していった。それまでは自分自身も障害という自分の特性をある意味では治さなくてはいけないもの、恥ずかしいもの、憎むべきもの、そのような差別・偏見を自分自身の体に持っていたが、障害というのは私の体の特徴ではなくて、エレベーターを設置していない建物の特徴である、あるいは十分に介助者を派遣してくれない制度設計の特徴である、私の外に広がる社会環境側の問題であるという障害の社会モデルの考え方にかなり影響を受け、堂々とこのままの体で生きていていいのだと背中を押してもらった記憶がある。 p3 しかし、そういった徐々に広がっていった障害の社会モデルの考え方に逆行するような出来事が、2016年に津久井やまゆり園事件という形で起きた。犯人は「障害者はいないほうがいい」というような非常に差別・偏見をはらむような犯行動機を語った。 虐待が起こりやすい施設の条件として、こちらに示したように、利用者とサービス提供者の間に権力やコントロールの不均衡があったり、ヒューマナイゼーション、人間的に扱わない文化、地域との交流が少ない環境、そして虐待の報告とモニタリングが手続化されていない、このようなことが先行研究では障害児者への虐待が起こりやすい施設の条件と言われているが、日本の障害者施設の中でこのようなことが起きていないかどうかということは、今後しっかりと考えていくべき内容だと思う。 同時に、障害児者への差別・偏見が支援者の中で醸成されやすい職場の条件として、職場の心理的安全性の低さが障害者への差別・偏見を助長するという知見を私たちは得ている。さらに、職場の心理的安全性を高めるためには、その職場のリーダーの謙虚さが非常に重要だということも最近確認した。 心理的安全性というのは、簡単に言えば、疑問を抱いたり、失敗したり、懸念を表明したとしても、周囲から罰せられたり、辱められたりしないだろうという信念を自分の職場に対して持てている度合い。簡単に言えば、前向きな善意や正直さが職場によってむげにされない職場を心理的安全性の高い職場。そういう、職員自体が声を上げやすい職場において差別・偏見が減っていくという知見を得た。つまり、障害者への差別・偏見の問題というのは、同時に、障害のない支援者の側の問題でもあるということである。 さらには、そういった心理的安全性の高い障害者支援施設や支援事業所の特徴として、リーダーが謙虚であるということが重要であることも見いだしてきた。ここでいう謙虚さというのは、リーダー自身が自分を正確に見ようとしている、自分が無謬ではないことを認められるリーダーであることを意味する。そのような知見に基づいて、支援者に対して私たちは障害者虐待をしないような防止のための取組、特に支援者自身が自分の限界やストレスを自覚する当事者研究に参加してもらうことで虐待を未然に防ごうという取組を行ってきた。 この取組の中では、障害児者への虐待のリスク要因をまず列挙して参加者に理解してもらうところからスタートし、実際に自分たちが障害者と接するときにひやりとした事例を振り返ってもらった。さらに、先行研究を加味しながら、なぜそういったひやりとしたあわや虐待になってしまいそうな事例が起きてしまったのかの原因分析を行ってもらうということをし、それを踏まえて、さらに対応策を考えてもらうようなプログラムを行った。 中でも養育者や支援者側が虐待をしてしまう要因の一つに、特に養育者にいえるが、喪失や罪の意識が虐待につながりやすいことが知られている。これも家族や養育者が持つ障害者に対する差別・偏見の一つの現れかもしれない。 時代を振り返ると、1970年代に障害児を持つ親が子供の将来を悲観して子供を殺すという痛ましい事件が起きていた。その頃、その母親に対して同情した世論が母親の減刑嘆願運動を行ったが、それは障害児の人権を軽視しているのではないかとして減刑反対運動を行ったのが、日本の障害者運動の原点の一つである。 p4 そのときに、障害者運動のリーダーたちは、母親は言ってみれば加害者ではあるのだが、真犯人はむしろ母親をそこまで追い込んでいった人々の意識や状況である、まさに差別的な状況こそが母親をして子供を殺さしめたのだということを指摘していた。 海外に目を転じると、自閉症の世界でも自閉症当事者の運動が1990年代から台頭してきた。ジム・シンクレアという御自身も自閉症の活動家が「Don’t Mourn For Us.」、私たちを哀れまないでというメッセージを特に自閉症児の親に向けて発信したのが、今、世界で台頭してきている自閉症の運動の先駆けだった。背景として、障害者に対する差別・偏見を一般の市民、そして家族もまた持ってしまう、当事者自身も持つことがあるという事態である。 差別や偏見という現象を学術的に切り取る際に使うキー概念の一つが、スティグマと呼ばれる概念である。私たちは人々の多様性を認識するときに、ついつい似たような人たちを同一のラベルでカテゴリー化する傾向がある。さらには、それらが互いに接触しないように隔離したり、一つのカテゴリーに対して典型的なイメージをステレオタイプとして持ってしまったり、あるいはカテゴリーの中に序列を設けて優劣をつけてしまったり、そして序列の中で劣っているとカテゴライズした人に対して、同化や排除を強いる言動としての差別を行ったりということをやってしまいがちである。 以上で述べた様々な私たちの認識や行動の癖を総称して、スティグマと呼ぶ。 スティグマというのは、スティグマを向けられた人々、障害者だけではないが、彼らの住まいや雇用、そして心身の健康などを損なうある種の情報環境における公害であるということが世界的に認識されている。 では、スティグマを減らすにはどうしたらいいのか、差別・偏見を減らすにはどうしたらいいのかという研究も1950年代ごろから積み重ねられており、有力な説の一つが集団間接触理論と呼ばれるものである。障害者差別でいうと、障害者と健常者が接触することが非常に重要である、ただし、どのような条件でも接触すればいいということではない。あくまでも以下に述べる4つの条件を満たした接触、平等な地位と集団間の協力、共通の目標と制度的なオーソライズ、この4条件が満たされた接触を小さい頃から重ねることで、初めてスティグマは減るのだということが明らかにされつつあった。これなどはまさに子供時代からのインクルーシブ教育の重要性を示唆する所見、インクルーシブ教育がなぜ差別・偏見を減らす上で重要かを教えてくれるものである。 私たちが東京都医学総合研究所と一緒に行っている学校風土改善プログラムによると、障害のあるなしを超えて共に社会モデルを実践して、自分たちも学校のルールを変えることができるエージェントなのだということを子供たちが自覚することが、子供の鬱やいじめを顕著にかなり強い統計学的なレベルでもって減らすことが分かりつつある。 p5 さて、この差別・偏見が極まった状態の一つが、優生思想と呼ばれるものである。優生思想は旧優生思想と新優生思想に分けて論じられることもある。旧優生思想は、集団の遺伝的質の改善を行うために優良な子孫の出生促進、劣悪な子孫の出生防止のために生殖行為や婚姻をコントロールしようとするものだった。それに対して今なお継続している新優生思想というのは、専ら新しい医療技術によって洗練された形で「個人の自発的選択」という装いで、あたかもリベラルな権利を保障しているという装いで遂行されている優生学的な実践を表す。例えばターミナルな状態で障害を持ちながら生きていくことを迫られたときに、尊厳死のような形で早く自分の延命的な治療を断るといった場面があるが、こういった形で本人の意思決定を尊重するという装いで優生思想が機能している。決して本人の自己決定の権利を否定するという意味ではなく、本人の自己決定の背後にある社会的な諸条件に私たちは目を向ける必要がある。 例えば自殺に関する研究でいうと、所属感が減弱したときや、自分の存在が自分の大切な人に負担になっていると知覚したときに、人は死へと水路づけられるということが知られている。十分に社会保障が実現していない社会の中で重い障害を持った人が死へと水路づけられる意思決定をすることは想像に難くなく、政治や行政はそういった意思決定のさらに背後にある、基盤にある、意思決定に潜在的な影響を与える社会的な不公正を是正する必要があろうかと思う。 さらに、所属感というものが自殺に大変な大きな影響を与えるのだが、障害者がその所属感を高めるために重要なことは、自分の人生を長きにわたり周囲の人々と共有する、対話によって共有することだと言われている。これも幼い頃から一貫して長い人生をシェアしながら、語らいながら過ごしていく地域社会とのつながり、接触というものが、いかに新しい優生思想に抵抗する力になり得るかを示唆するものである。 障害者の支援の文脈でよく自立を目指さなくてはいけないと言われることがあるが、私自身は自立は依存の反対語ではないとこれまで主張してきた。70年代まで、重度の障害者が生き延びるには年老いた家族に依存するか人里離れた山奥にある施設に依存するほかないという状況が起きた。このように、障害を持っている人々は相対的に依存先が少ない状況に置かれている。 これは2011年3月11日の東日本大震災のときに私が逃げ遅れたときの写真だが、あの日、大きな地震だったので、エレベーターが自動で止まってしまって逃げることができなくなり、これで駄目かと思ったが、幸い同じフロアにいた同僚が私の体を担いで逃がしてくれている状況である。 あのとき、健常者はエレベーター以外にも階段やロープやはしごなどたくさん逃げるための依存先があったのに対して、私は依存先がエレベーターしかなかった。自立というのはどちらが自立なのかというと、依存先がたくさんあって一つ一つの依存先に支配されている度合いが少ない、こちらの状態が自立という状況なのだろうとそれ以来考えるようになった。つまり、インディペンデンスではなくてマルチディペンデンスな状態が、障害者にとって、ひいては人間にとっての自立を意味するものだろうと思っている。 p6 私も先輩の障害者から一人暮らしをするときには30人以上支援者を確保しなさいと言われたが、それはもし支援者のうちの1人が私に対して暴力的、差別的な言動をしたときに、1人しか支援者がいなければそれに甘んじるしかなくなるのだが、残り29人いれば私は尊厳を奪われることなくその支援者との距離を置く自由を享受することができる、それが私にとっての自立なのだということを教わった。まさに先輩の障害者たち、世の中は大なり小なり健常者向けにたくさん依存先を保障するように偏ってデザインされているが、諸先輩方の粘り強い運動によって、私たちにも依存先が開拓される社会というものが徐々に実現してきた。 「依存」という言葉も近代以前はむしろ好ましい状態を表す言葉だったと言われているが、近代以降、避けるべき事態を表す言葉に変わっていったという報告がある。私たちはこの時点で差別・偏見という文脈で依存というものの肯定的な側面を見直す必要があるだろうと思っている。私自身も小児科なので、子供が成長、発達する、自立していくプロセスを応援してきたけれど、つくづく生まれて間もない子供は依存先が唯一養育者だけに独占されている状況にあるが、自然に健常な子供であれば依存先が社会に広がって、やがて親がいなくてもそれ以外の依存先が十分あり、後に続く必要が無くて、親を見送ることができるというのが一般的な子供の育ちだが、障害を持っている子供の場合、この依存先が自然に広がるプロセスはまだまだ十分に進まない状況があると思う。 このように、子供の視点で見ても依存先を親以外にも広げていくというのは非常に重要である。私たちは再び東京都医学総合研究所と一緒に児童虐待の予防プログラムをやっているが、そこでも共同的子育て、つまり実の親や養育者ではない人々、地域が全体として一人の子供を育てることが非常に重要だということが指摘されている。産後鬱と子供への虐待を顕著に減らすという有益な知見を得ており、これは障害を持つ親が子育てをするときも非常に重要で、実際、一般の親御さんに対して障害を持ちながら子育てをしている親御さんが講師となって、様々な共同的子育てのスキルやノウハウを伝達することで鬱や虐待が減っていくという知見を得つつある。 最後。差別や偏見のない共生社会の条件として、社会モデルを実践する学校など社会の在り方、心理的安全性と多様な他者とのやり取りを通じた自己理解、謙虚さである。そして、対等な接触と所属感、依存先をたくさん持つことと、共同的な子育て、この6点について話題提供させていただいた。 ○ヒアリング対象の佐藤事務局長から以下のとおり説明があった。 今日は資料でDPIとしての意見をまとめてあるのだが、その前に私の子供の頃の話をしたいと思う。私は今年 57になったが、元々障害はなくて、9歳のときにけがをして脊髄損傷という障害を持ち、車椅子に乗って生活している。半年病院にいた後に、自分は車椅子になったから元々いた学校に戻れるのか、階段しかないがどうなるのだろうかとすごく不安だったが、お医者さんに県内に1つ当時の養護学校と病院がくっついた施設があるから、そこがあなたにとって一番いいところだと勧められて、その施設に入った。新潟市内だったが、小学校1年生から中学3年生までの新潟県内の障害児が集まって150人ぐらい集団で生活した。 p7 最初に驚いたのは、8人部屋だったが、壁がガラスだった。着替えをしていても全部外から見える、そういうつくりだった。理由は、子供がベッドから落ちたときに看護師がすぐ分かるようにということだったが、全くプライバシーがないものだった。朝起きる時間から夜寝る時間まで全てスケジュールが決められていて、自分は今日こういうことをやりたいと思っても一切できない。建物の敷地以外に出ることは禁止されていた。そのため、私は4年間いたが、施設からほとんど外に出たことがなかった。 お風呂は週2回と決まっていて、夏、とても暑くて汗をかいてもお風呂の日でなければお風呂には入れないという状況。家族に会える日も月に3回と決まっていて、面会日が決められているのだが、これ以外は家族は会いに来てはいけないのだ。子供だったので、もう本当に家族に会いたくて、毎日指折り数えた。あともう何回寝たら母親に会えるということを毎日考えていた。面会日になると12時で学校が終わり、部屋に戻ってきて3時まで家族と会えるのだが、3時になったら帰らなければならず、子供はみんな玄関に見送りに行く。すると、小学校1年ぐらいの小さい子がお母さんと離れるのが悲しくて泣いている。お母さんも泣いている。それを見たときに、親も子も一緒に住みたいと思っているのに、なぜ歩けなくなったら離れて暮らさなければいけないのか、それは歩けないことと別の問題ではないかと思った。 4年間いたが、だんだん自分が変になっていくのが分かった。どうなったかというと、店で買物ができなくなった。店員が怖い。施設は閉鎖されているから、限られた人しか会わない。初めての人に会うことはほとんどない。すると、店に行ったら知らない店員がいて、別にその人が私に何か悪いことをするわけではないのだが、もうそれだけで怖いのだ。元々自分は小学校1年生、2年生のとき、お金を持ってお菓子を買いに行くのが大好きだったが、それができなくなってきたと思った。 当時は車椅子の人は普通の学校に入れてもらえなかったため、自分は地元の中学校に戻りたいが、それは無理だということは何となく分かっていた。2つ上の女の子が私と全く同じ障害だったが、普通の高校を受験した。結果は、学力は通ったが、建物がバリアフリーになっていないから不合格ということで落とされた。1週間、ずっと彼女は泣いていて、部屋から出てこなかった。それを見て、自分も普通の学校には入れてもらえない、自分はこの隔離された中でずっと一生生きていくしかないと思った。それでも、駄目かもしれないがチャレンジはしてみたいと思い父親に話したら、地元の中学の校長先生に会いに行ってくれて、その校長先生が本人を連れてきてくださいと言ってくれ、たまたま田舎の小さい中学校だったが、校長先生が受け入れてくれた。それで私は普通の学校に行けるようになった。 ものすごくうれしかったのだが、不安なことが1つあった。同級生となじめるかということがすごく不安だった。私は4年間ずっと施設におり、同い年の健常者を見たことがなかったのである。会ったこともない。目の前にいるだけで怖い。さらに、外に全く出ていないから、一般の人たちが知っていることを何も知らない。例えば同い年の子が今どういった遊びをしていて、どのようなことがはやっているかは全く知らなかった。 p8 もう40年以上前だが、当時インベーダーゲームが流行っていて、新聞は見られたため、どこどこの学校が校則でインベーダーゲーム禁止になったというのは知っていたのだが、ついに一度もやる機会がなかった。幸いなことに、地元の同級生がみな私を受け入れてくれて、無事になじむことはできた。たまたま校長先生が非常に理解のある方で、私はラッキーにも普通の中学校に戻れたのだが、そのおかげで大学にも行ける、そういうことができた。 施設にずっといて、私は本当に何も知らなかった、いろいろな経験を積むことができなかった。それから普通の学校に行ったら、もう外に出るのが嬉しくてしようがない。右に行ってもいいし、左に行ってもいいし、途中の自動販売機でジュースを買って飲んでもいいのだと、人間はこんなに自由なのだ、自分もこれから普通の社会で生きていけるのだというのは、本当にうれしく思った。 一緒に学ぶことは、もちろん障害者にとって様々な経験ができるというメリットもあるが、一緒に学ぶ健常者にとってもとてもいい機会だと思っている。障害のことを理解できるのである。私の同級生、クラスメイトは、きっとみんな障害のことをそんなに否定的に捉えていないと思う。ああやって生きていけるのだと。私自身は障害は不幸だとは全く思っておらず、障害が不幸かどうかは全く関係がないことだと思っている。そういうことは周りの人たちもちゃんと理解してくれると思った。共生社会の実現のためには、同じ場で学ぶというインクルーシブ教育が不可欠だと思う。 先ほど熊谷委員長がおっしゃっていたが、社会モデルもすごく大切で、私は大学に入って初めて社会モデルを教えてもらった。当時、私は2階に行きたい店があって、階段しかなく、エレベーターがない場合は、行くのは諦めていた。それは歩けなくなった自分が悪いのだと思っていたのである。大学に入って先輩の障害者が、それはおまえが悪いのとは違う、エレベーターをつけていない建物が悪いのだ、社会が悪いのだと。エレベーターをつけることによって車椅子でも2階に行けるようになる、だから障害は個人の問題ではなく社会の問題なのだということを教えてもらい、それは本当に救われた。俺が悪いのではなかったのだと、自分はこれから堂々と生きてもいいのだと、社会モデルによって私も救われた。 さて、DPIの意見だが、全部で6点ある。少し端折りながら御説明する。 まず、是非お願いしたいのは、優生思想に基づいた障害者差別を無くしていただきたいと思っている。旧優生保護法によって、社会全体に優生思想に基づく障害者差別が広がっていると思う。多くの人たちは障害者はかわいそうな人、何もできない人、障害は不幸だと否定的に捉えていると思う。障害者権利条約の考え方は社会モデルの考え方で、これは社会の側に問題がある、社会の環境を改善することが大切だという考え方である。残念ながら、まだ日本では十分にはこの考え方は広がっていないと思う。優生思想に基づく障害者差別を無くして、社会全体の環境を整備して、障害のある人も地域で共に学んで働けるインクルーシブな社会を作るためには、政府においては優生思想に基づいた障害者差別は許さないのだという姿勢を明確に発信していただきたいと思う。 p9 2022年に国連の障害者権利委員会から指摘された中でも、優生思想関係のものはたくさんある。こちら (第1回政府報告に関する障害者権利委員会の総括所見)で紹介している20の(a)のパラグラフだが、障害者に対する否定的な定型化された観念、偏見、有害な慣習を排除するための国家戦略を採用することと勧告を受けている。この対策推進本部幹事会で是非これを検討していただきたいと思う。 2点目は、障害者基本法の改正である。優生思想に基づいた差別を無くすためには、まずは障害者基本法を改正して、基本法の中に優生思想に基づく差別は許さないのだということを明確に指摘していただきたいと思う。ほかにも障害者基本法は様々な法律のベースになる考え方を示したものなので、日本の課題となっている地域移行やインクルーシブ教育をはじめ様々な課題があるからので、そういったことも併せて盛り込んでいただきたいと思う。 3点目は、教育である。以前は学校教育の中で優生保護法を肯定的に捉えるというものがあった。その結果、優生思想を根づかせてしまったという歴史的な総括と反省が必要だと思う。これを踏まえて、学校教育の中で「優生保護法の歴史とその被害」ということを是非教えていただきたいと思う。また、優生保護法に基づく不妊手術等を実施した医師、看護師、そして推進した教師や施設職員、民生委員も実際にはたくさんいたわけである。こういった専門家によって被害が拡大されてしまったという歴史的事実がある。それも踏まえて、これからは医療、教育、福祉、司法関係、そういった方に優生保護法の歴史や被害、それと社会モデルの考え方について研修を必須としてやっていただきたいと思う。 4点目は、パリ原則に基づいた政府から独立した国内人権機関の設置である。国内人権機関は世界120か国ぐらいで設置されていると言われ、先進国で無いのは日本ぐらいである。権利条約の日本の審査の前に、ほかの国はどのように審査されているのかを見にジュネーブに行き、いろいろな国の障害者団体と交流をしたのだが、そのときに日本はまだ国内人権機関が無いのだという話をすると、ものすごく驚かれた。そんな国はあるのかというぐらいの驚き方だった。人権侵害からの救済を図るものが今は無いので、ちゃんと救済の機関として国内人権機関を設置していただきたいと思う。 5点目だが、津久井やまゆり園の事件が2016年の7月に起きたときに、私はちょうどアメリカのワシントンD.C.に行っていた。向こうの障害者団体のカンファレンスに参加をしていたのだが、事件があったときに、すぐホワイトハウスの障害担当の職員から私に連絡があり、すぐ会いたいと言われた。よく私が来ているのを見つけたなと思うのだが、事件が起きた2日後ぐらいにホワイトハウスに行ってきた。この方は御自身も障害をお持ちだったが、大統領に対して障害関係のことを調べてアドバイスする担当なのだということを言われて、日本の障害者団体はこの事件に対してどのように考えているのかをヒアリングされた。この後、すぐホワイトハウス、そして大統領から津久井やまゆり園事件に対する声明が出された。こういう仕組みは非常にいいなと思ったのである。 また、サッカーの国際サッカー連盟(FIFA)があるが、ここは人種差別に対して非常に厳しく接している。サポーターあるいは選手が差別的な言動や行為をした場合は、すぐ声明を出して制裁をする。私はこれはとても大事なことだと思う。このようにトップが差別を許さないという姿勢を繰り返し示すことで、社会全体に差別は駄目なのだということが浸透していくのだと思う。是非日本政府においても、差別が起きたときに迅速に首相や政府が差別を許さないのだという声明を出す仕組みを新しく作っていただきたいと思う。 p10 最後は、雇用分野である。雇用分野も様々な課題があるので、書いているが、ここは割愛したいと思う。 ○講演の後、各府省庁出席者とヒアリング対象者、有識者及びアドバイザー(構成員)との間で、以下の質疑応答があった。 ・障害者を雇用する際の留意等について、障害者というカテゴリにあてはめず、個人として対応していくこと、特に精神障害のある方に対しては事後支援が重要である。また、障害のない人の自己認識の変革として自己の脆弱性と障害のある人にはないものを享受していることを見つめることで、はじめて対等な形での障害者との協働が可能となると回答があった。 ・医療現場における優生思想が強く残っていると思われる点について、専門家が障害者の人生の責任を負わされすぎている状況を、当事者の自己決定・自己責任となるように変えていくように考えなければならない。また、障害者の同僚を持ち、接触していくことも有用かと考えられている旨の回答があった。 ・優生思想を無くすためにはどうしたらいいかについて、政府が差別を許さない姿勢を発信すること、インクルーシブ教育を通じて障害者について考えていくことが重要だと回答があった。 (以上)